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忍ぶ恋 三十一文字に込め 名歌をたずねて(2)
軌跡

2014/6/18付
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京都市上京区の西陣地区の一角に「般舟院陵(はんじゅういんのみささぎ)」がある。室町時代の後花園天皇らの遺骨が分骨されており、宮内庁が管理する。陵の西側には、ひどく摩耗した石仏が並び、築山の上には五輪塔。これが式子内親王の墓と伝わる。

奥の五輪塔が式子内親王の墓と伝わる(京都市の般舟院陵)

内親王は、平安末期の後白河天皇の第3皇女。賀茂斎院として下鴨、上賀茂の各神社で11年間、神事に仕え、その後、出家した。「忍ぶ恋」と題してこう詠んでいる。

玉の緒よ 絶えなば絶えね

ながらえば 忍ぶることの

弱りもぞする

(命よ、絶えてしまえ。生き永らえれば、忍んでいた恋心があらわになりそうだから)

恋の相手は百人一首の選者の藤原定家とされる。内親王を研究する歌人の平井啓子さんは「斎院として神に仕えた身では、恋愛や結婚は難しかったのでは」と指摘する。「忍ぶ恋という題を与えられ、理知的に掘り下げたのでは」

内親王が男性になった気持ちで詠んだ、とする論者もいる。「内親王の歌は約400首あるが、どんな時に詠んだのかを説明する『詞(ことば)書き』があるものが非常に少ない」(平井さん)。生涯に関しては不明点が多い。

ただ、定家の日記「明月記」には、病気の内親王を何度か見舞ったという記載が残る。恋に縛られる内親王を描いた謡曲「定家」は、この史実を作者の金春禅竹(こんぱる・ぜんちく)が巧みに利用したものだろう。

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