故郷の誇り 激流の上 村伝統の筏流し(未来への百景)
和歌山県北山村
紀の国は「木」の国だ。その命は時に1000年を超える。人びとは代を継いで木を慈しみ、生きる糧とした。そのための卓越した技は今も和歌山県北山村に伝わる。

ヘンバツ。「編筏」と書く。切り出した木を川の流れを利用して港まで運ぶため、筏(いかだ)に組むことだ。丸太の端の穴にロープなどを通して固く密着させていく。
川を下る筏流しは室町時代から。新宮市の港まで、夏なら2~3日、冬でも4~5日で着いた。筏を操る人は「筏師(いかだし)」と呼ばれ、往時は数百人が腕を競い、朝鮮半島と中国大陸の間の鴨緑江まで出稼ぎしたという。
陸路の発達で、1963年にいったん姿を消した筏流し。観光用として復活したのは79年のことだ。「筏あってこその村」という先達の思いが実った。現在は5~9月に運航、年間6000人が乗る。
「一番大事なのは急流にどう入っていくかの判断」と語るのは現代の筏師、山本正幸さん(47)。風向き、水流を瞬時に見極め、櫂(かい)を操る。この道17年。かつて大阪の建築資材メーカーで営業マンだった。Uターン後「棹(さお)3年、櫂8年」ともいわれた修業を経て、今や最も重要な「先乗り」として最前列に陣取る。
客15人を乗せ、筏が岸を離れた。同じ大きさの7台が連なる編成で長さ30メートル。山本さんは仁王立ちで流れを凝視し、時折、櫂を流れに差し、後方の若手の筏師3人に険しい視線を送る。出発の直後には「弟(おと)乗り」と呼ばれる急流が待つ。跡継ぎの長男ではなく弟が乗る。それだけ危険な場所という由来だ。
ゴウッという音で筏が加速し、木と岩がぶつかる衝撃が伝わる。水が足首までぬらし、客の悲鳴が響く。若手らは舵(かじ)に体を預けたり、棹で岩を突いたりと懸命だが、山本さんはへさきで足を踏ん張って微動だにしない。
流れがない淵では、岩を棹で押したり、櫂でこぎ動力を作り出す。「体力使います。去年のシーズンで7キロやせました」と若手の1人。
最後の難関は直角に曲がった急流だ。筏がどんどん川岸の岩に迫り、「ぶつかる」と体をこわばらせた瞬間、ギリギリで岩を避け、流れに乗って速度を上げ、曲がった。
着岸。そそり立つ岩場にこだまする鳥の声。乗客の顔は筏師の技に酔ったように紅潮している。山本さんに人懐っこい笑顔が戻った。
文 大阪・文化担当 毛糠秀樹
写真 伊藤航
村の名産は「邪払(じゃばら)」と呼ばれる独特のかんきつ類。自然交配で生まれたとされ、北山村が原産地だ。さわやかな風味の果汁が特徴で、加工品も含め年間2億円を売り上げる。
最近では「花粉症」に効くとの口コミがインターネット上で広がり、愛飲者が急増している。筏師たちもシーズンオフには邪払の生産に従事する。
<カメラマン余話>山の斜面をおそるおそる下り、川沿いの岩場を慎重に進む。慣れない動きと重い機材に膝が笑いだす。水しぶきで滑る岩に立ち、おぼつかない足つきで筏を待つ。激流をぬって登場した筏師は、どっしり構えて下半身が全くブレていなかった。
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