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難波宮発掘60年 展示でたどる苦闘の跡

大阪市中央区に残る「難波宮(なにわのみや)跡」。7~8世紀にかけ、宮殿が建ち、一時は政治の中心地となった。今年は本格的な発掘調査から60周年を迎える節目。大阪歴史博物館(同区)は特別展を開き、瓦や土器など15のキーワードで、過去から現在を読み解く。

特別展「大阪遺産 難波宮――遺跡を読み解くキーワード」は8月18日まで。「難波宮跡は大阪市内に残る古代の痕跡で、今、目に触れることができる数少ないもの」(杉本厚典学芸員)。新しい政治を始めようとした為政者らの意気込みが感じ取れ、長期に及んだ発掘を通観できる。

難波宮の造営は645年、時の実力者、蘇我入鹿を中大兄皇子らが滅ぼした大化の改新が契機。652年には完成したとされる。しかし、孝徳天皇と中大兄皇子が不仲となり、皇子らは飛鳥に帰ってしまう。都としては短命だった。第2の首都である「複都」としても使われたが、686年に全焼した。前期難波宮だ。

聖武天皇が治めた726年にも前期とほぼ同じ場所で造営が始まり、一時は首都にもなった。後期難波宮と呼ばれる。784年、長岡京への遷都により、主要な建物が移築され、役割を終えた。

その後は1200年近く、所在は謎に包まれたまま。伝説とも言われてきた。光を当てたのが1954年に始まった考古学者、山根徳太郎氏(1889~1973年)らによる発掘調査。当初は瓦が大量に見つかり、後期の宮では瓦ぶきの建造物があった可能性が高いと裏付けられた。天皇が政務を執る大極殿跡や、建物の基壇に使われた石材も出土した。

日本書紀の記述にある前期の宮の全焼を示す柱穴なども発見。「それまでの飛鳥の宮と異なり、官吏が事務を執る朝堂院と呼ばれる空間を持ち、これが内裏と南北1列に並ぶ対称的な建物配置も明らかになった。中国風の宮城は難波宮が最初」(杉本学芸員)

展示は難波宮に関連する15のキーワードごとにまとめられ、どこから見て回っても、宮や発掘調査の特徴がわかる。「難波宮の前夜」では首都となる以前に「難波津(なにわづ)」という港に外交使節が往来していた当時の姿を、出土した朝鮮半島の新羅や百済の土器で示す。李陽浩学芸員は「もともと先進性があった土地なので都として選ばれた」と指摘する。

日本書紀には「難波宮を造るために墓を壊されたり、建物が撤去されたりした人に補償した」との記載がある。大がかりな土木工事の実施を裏付ける使役用の牛馬の骨や鋤(すき)に加え、開発で古墳が壊され、遺棄された埴輪(はにわ)なども展示する。

発掘の中心となった山根氏の苦闘の跡にも迫る。科学研究費の増額要請への否定的回答、企業からの寄付送金の書状、土地の所有者への発掘許可申請など、様々な書簡を展示。トロイ遺跡を掘り当てたシュリーマンになぞられ、労を惜しまなかった山根氏の情熱が身近に迫る。「関係者への年賀状の内容の変遷から、調査の進捗具合や意気込みが伝わる」(李学芸員)

歴史の実証という作業には気が遠くなるような粘り強さと、多くの人々から力を集める誠実さが欠かせない。改めてそう実感する。

(大阪・文化担当 毛糠秀樹)

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