鯨のヒゲ 魂吹き込む 文楽を支えるかしら係(未来への百景)
大阪市

2014/7/1付
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美しい姫の人形の顔が一瞬で、目をむき、口が裂け、頭から角を生やす鬼の形相に変わる。恋する安珍への嫉妬に駆られた清姫が、蛇に変化して川を渡るシーンは、人形浄瑠璃文楽の人気演目、「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」のクライマックスだ。

巨大なセミクジラのヒゲから幅1センチメートル、長さ7センチメートルほどのバネを切り出す

巨大なセミクジラのヒゲから幅1センチメートル、長さ7センチメートルほどのバネを切り出す

大阪生まれの伝統芸能、文楽は3人一組で人形を操り、多彩な表情をつくる。この人形のかしら(頭部)は中がくりぬいた状態になっていて、目玉を動かしたり、口を開けたりするための仕掛けが施されている。

仕掛けをなめらかに動かすにはバネが必要だが、この原料になっているのはセミクジラのヒゲだ。ヒゲといっても長さが2メートル以上もある。これを短冊状に削り、人形のかしらの中に仕込む。樹脂や金属のバネを試したこともあったが、加工のしやすさなどでセミクジラのヒゲが一番具合がいいという。

国立文楽劇場舞台技術課の村尾愉さんは、かしらの修理や化粧を担当する。数カ月先の公演の演目が決まると、かしらの顔を塗り直し、役柄に合わせた化粧を施す。仕掛けの糸が傷んでいれば交換し、傷など壊れたところは修理する。「人形遣いが全力で芸を発揮できるように工夫している」(村尾さん)といい、人形遣いに合わせて、クジラのヒゲで作ったバネの強さを調整することもある。

国立文楽劇場には現在、300以上のかしらがある。老若男女、性格の違いなどで仕掛けも異なる。美しい姫が鬼の形相に変わるのは「ガブ」と呼ばれるかしら。清姫のほか、「瓜(うり)子姫とあまんじゃく」のあまんじゃくの役などに用いる。空襲で焼失したため、かしらの多くは戦後に作られたものだ。文楽劇場にある最も古いかしらは1850年ごろに作られた。

20年に1度程度は、化粧をすべて剥がし、かしらを分解してバネや糸の部品を取り換える。1つの人形に使われているセミクジラのヒゲは多くても4枚程度だ。一度作れば20年は使えるので、捕鯨船の乗組員が寄贈してくれたヒゲは「今後数十年分のストックはある」(村尾さん)。

ただ、南極海での調査捕鯨について今年3月、国際司法裁判所が中止を命じる判決を出すなど捕鯨への圧力は強まっている。先の見通しが立たないのは不安だが、丁寧な修理を繰り返して、人形の命を未来につなげる。

文 小国由美子

写真 三村幸作

〈取材手帳から〉文楽の公演は大阪や東京での定期公演のほか、地方巡業もあり、メンテナンスの時間を十分にとれないのが悩みという。1回の公演で使う人形は60~80程度。同じ役柄でも場面によっては別のかしらが必要になるので、役の数よりも多くのかしらを用意する。
 一方で、新しい人形を作るのもかしら係の仕事。村尾さんが作製中の新しいガブを見せてもらった。従来のものよりも角が長くでるよう、スライドする仕組みを取り入れるなど工夫を凝らす。製作途中でも新作の依頼が舞い込み、2年近くたつがまだ完成していない。「初舞台」を早く見てみたい。

〈カメラマン余話〉文楽人形の仕掛けにセミクジラのヒゲが使われていると聞いて、ネズミのヒゲのようなものを想像していた。しかし使用前の実物を見て、2メートルを超す板のような形に驚いた。仕掛けをつぶさに写そうという構想はどこかへ去り、そのままの姿にシャッターを切った。
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