「天空の城」竹田城 山上に大石垣(謎解きクルーズ)
派手好き秀吉の金庫番?

2014/4/20 6:30
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■資金捻出へ家具産業隆盛

険しい山の頂に戦国時代の壮大な石垣が残る竹田城(兵庫県朝来市)。雲の上に石垣が浮かぶ幻想的な雰囲気から「天空の城」とも呼ばれ人気を集めている。現地を訪れると素朴な疑問が湧いてきた。険しい山に大がかりな石垣を築いた理由とは――。歴史好きを自称する記者が背景を探った。

「天空の城」として人気の竹田城跡(兵庫県朝来市)

「天空の城」として人気の竹田城跡(兵庫県朝来市)

麓から急勾配の道を歩くこと40分ほど。古城山(標高353.7メートル)の頂に近づくと、不ぞろいな巨石が高く積まれた構造物が目の前に広がる。山頂付近は平たく造成されており、石垣群は南北400メートル、東西100メートルに及ぶ。石垣の前で42歳の女性観光客が感嘆の声をあげていた。

「工学部もない時代にこれほど高度な技術があったなんて不思議だわ」

□ □ □

朝来市埋蔵文化財センターの田畑基館長によると、竹田城の石垣が現在の姿に整備されたのは戦国時代末期の1590年代中ごろ。当時は石垣の上にやぐらや天守といった建築物もあったらしい。「これほどの石垣を持つ山城は全国的にもまれです」

どのようにして造られたのか。「坂の勾配がきついので麓から石を運ぶのは難しい。山の至る所にある石取り場から滑車などを使って人力で引っ張り上げたと想像されます」(田畑館長)。多くの人手も要したのだろう。田畑館長が興味深いエピソードを教えてくれた。

「農民がことごとく築城にかり出されたため、田に松が生えてしまったという逸話が残っています」

地元住民によると、竹田の街で盛んな家具産業は築城資金を捻出するために始まったとの説があるという。後世に伝説を残すほど大規模な築城工事を指揮したのは一体誰なのか。

地元の観光案内所が配布する資料には「1585年、赤松広秀が竹田城主になる」との記載がある。放映中のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場する若き戦国武将だ。領地の大きさを示す石高は約2万2千石と当時の徳川家康の100分の1以下。日本屈指の山城の主にしてはいささか物足りない。

朝来市教育委員会の中島雄二さんは「小さな大名である赤松広秀だけで築城できる規模ではない」と断言する。「時の権力者である豊臣秀吉の意向が働く国家プロジェクトだった可能性が高い」

中島さんは竹田城から直線距離で約15キロメートルの場所にある生野銀山(兵庫県朝来市)の存在を指摘する。当時の生野銀山は石見銀山(島根県大田市)、多田銀山(兵庫県猪名川町)などと並ぶ一大鉱山。1567年には日本最大の鉱脈が発見され、古文書に「銀の出ること土砂のごとし」と記されるほど栄えていた。

豪華絢爛(けんらん)な建造物を愛する派手好みな秀吉にとって、生野銀山はいわば"お財布"。そんな重要拠点を守るべく「にらみを利かす役割」(中島さん)を担ったのが竹田城だったわけだ。

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秀吉の死後まもない1600年、石田三成率いる豊臣方は関ケ原の戦いで敗北。豊臣色を排除したい徳川幕府の誕生で、竹田城は10年にも満たない短い栄華を終え、歴史のうねりに消えていった。唯一「穴太積み」(あのうづみ)と呼ばれる自然石をうまく組み合わせる工法だけは400年の時を超え、今なお脈々と受け継がれている。

3月末。穴太積みを継承する粟田建設(大津市)の職人が竹田城の天守台付近で石垣修復工事に精を出していた。粟田純司会長は「石の声を聞くように積み上げていけば、少々のことでは崩れない頑丈な石垣になるんだよ」とコツを教えてくれた。

竹田城の石垣に立つと、眼下には春の陽光きらめく円山川や穏やかな田園風景が広がる。俳人・松尾芭蕉の句にある「兵(つわもの)どもが夢の跡」という一節がふと浮かんだ。

(大阪経済部 中戸川誠)

[日本経済新聞大阪夕刊関西View2014年4月15日付]

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