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生い立ち、いまだ謎残る 変わりゆく大阪平野(1)

軌跡

上町台地を除く大阪平野の大部分が、縄文時代に海だったことは知られている。1万2000年ほど前に直近の氷期が終わり、縄文海進と呼ばれる海水面上昇に見舞われた。6000年前の海面は最も寒かった2万年前より120~130メートル高くなったとされる。陸続きだった四国や淡路島は海で隔てられた。

氷河期はなぜ終わったのか。大阪市立大の三田村宗樹教授は「地球の気候が変わる主な要因は3つある」という。まず地球の公転軌道が10万年周期で円になったり楕円になったりしており、日射量が変化する。次に4万年周期で地軸の傾きが変化している。最後に2万3000年周期で地軸がコマのような首振り(歳差)運動をしている。この組み合わせで「今は温暖化したピークにいる」という。

では、なぜ弥生時代以降に陸地に戻ったのか。しばしば淀川の上流から流れてきた土砂が堆積してデルタを形成し、海を埋め立てたと説明されてきた。あるいは縄文時代の気温が現在より高く、気温低下に伴って海面が下がったとの見方もされた。

最新の知見は少し違う。東京大学大気海洋研究所の横山祐典准教授は「日本列島が2メートルぐらい隆起した」と話す。地球はサッカーボールのようなもので、外からの力で変形するという。氷河が解ける過程で、高緯度の陸地ほど重しがなくなり激しく隆起した。「アイソスタシー」と呼ばれる地殻均衡の理論だ。堆積物や地震なら地域差が出るが、アイソスタシーだから関東平野も同じように陸地化した。

長い年月の隆起で、大阪平野を覆っていた「河内湾」は「河内潟」そして「河内湖」になり、面積を小さくしていった。とはいえ、大阪平野が「水浸し」だったのはさほど昔のことではない。江戸時代でも大阪平野東部には池や湿地が点在していた。故・梶山彦太郎さんは著書の「大阪平野のおいたち」で、「大阪城の東側に泥質の広い芦原がひろがったことは、大阪城を難攻不落の名城とする一つの原因となった」と記している。

梶山さんと大阪市立大教授だった故・市原実さんは大阪平野の解明に大きく貢献した。彼らが作成した古地理図では、上町台地の北側から大阪市東淀川区の崇禅寺あたりまで半島が伸びている。今も多くの書物で引用される。

だが、市原さんの後を継いだ三田村教授は「縄文時代に砂州が発達し、後から堆積した砂礫(されき)層だとわかった」と話す。大阪文化財研究所の趙哲済・総括研究員らが2003年に作成した弥生時代の古地理図では、崇禅寺付近は上町台地の砂州ではなく、三角州の先端部分として描かれている。大阪城の北側の天満(大阪市北区)付近がどのように形成されたのか。議論はまだ決着していない。

編集委員 磯道真が担当します。

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