ヤルゼルスキ氏死去 ソ連と民主化要求のはざまで

2014/5/26付
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ワルシャワ市内の病院で25日に90歳で息を引き取ったことが伝わると、ポーランド政界から功罪両面の反応が出た。

旧共産党の流れをくむ民主左翼連合のミレル元首相は「1981年の戒厳令布告によってソ連軍の侵攻を防ぎ、数千人の命が救われた」とし、政府に服喪の日を設けるよう訴えた。一方、コモロフスキ大統領は「その必要はない」と一蹴した。戒厳令が布告された12月13日には毎年、市民がヤルゼルスキ氏の自宅前で抗議活動が繰り広げられるほど国民の記憶に負のイメージが刻まれている。

ソ連の衛星国のトップとして、常にソ連の圧力と国内の民主化要求の板挟みにあった。

戒厳令については「より小さな悪だった」と後に弁明した。民主化運動に弱腰で臨めば、ソ連の軍事介入を招きかねないとの判断だった。

強権的な一方、熱心なカトリック教徒でもあった。戒厳令下の83年、母国ポーランドを初めて訪れたローマ法王、ヨハネ・パウロ2世から「人間の顔をした社会主義」の実現を求められた。

「その後の方向転換の大きなきっかけになった」と本人が認めるように、法王を後ろ盾にした形で戒厳令を解除した。

連帯を率いたレフ・ワレサ氏との政治闘争はポーランドの民主化の歩みと重なる。何度も身柄を拘束されたワレサ氏は「背信的な行為をした人物のたぐいに属するが、あまりに複雑な時代だった」と日本経済新聞との26日のインタビューで述べた。偽善的な悪人だったと現時点で決めつけるには、難しい面が残る。

(国際アジア部次長

桜庭薫)

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