強国めざし「核カード」 金総書記評伝

2011/12/19付
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金正日総書記は1994年に実権を握って以降、内部のクーデターや米国の攻撃による体制崩壊におびえながら、核・ミサイル開発などを通じて周辺大国と対等に渡り合う「強国」になる夢を追い続けた。父、金日成主席のカリスマを後ろ盾に、軍を優先する「先軍政治」を掲げて基盤を固め、「核カード」をテコにした外交戦略で国際社会から支援を獲得した。一方で、慢性的な経済の困窮を解決できず、偽札や麻薬製造で外貨稼ぎを図ったほか日本人拉致など国際テロも主導したとされる。

北朝鮮の金正日総書記が死去=共同

北朝鮮の金正日総書記が死去=共同

「私が糖尿病や心臓病であるような報道があるが、事実は全くそうでない。だが、私に対する報道が大きいので気分は悪くない」。2007年10月の南北首脳会談。金総書記はワインを飲み干しながら健康を強調して見せた。常に海外の新聞やテレビの報道ぶりを気にかけ、大の映画通で「寅さんシリーズ」などを好んだとされる。

日本の植民地時代だった1942年2月16日、抗日運動に参加していた金日成氏と母の金正淑(キム・ジョンスク)氏が滞在中のロシア・ハバロフスク近郊で生まれたとされる。7歳で母と死別し、多忙な父と接する機会も少なく肉親の愛情に飢えていたとの証言が多い。

若くから有力な後継者として帝王学を学んだ。64年に金日成総合大学を卒業すると、すぐ労働党に入党し、組織指導部など中枢部署を経験した。73年に党中央委書記に就くと党秘密会議で後継指名を受け、91年には人民軍最高司令官に就いて軍の統帥権を確保するなど、着々と後継準備を進めた。

慎重で疑い深い性格だったとの評が多い。対抗勢力になりうる人物や、異母弟の金平日(キム・ピョンイル)氏ら後継争いのライバルを次々と排除。気を許した少数の側近で周囲を固めた。94年7月に父が死去した後も3年以上服喪し権力継承のタイミングを計り、ようやく98年になって名実とも最高指導者に就いた。

核開発を交渉カードに一貫して米朝交渉を模索し、体制維持に不可欠な「米朝関係正常化」を追い求めた。2000年6月に韓国の金大中大統領と初の南北首脳会談を開いて「謎の指導者」のベールを脱ぐと、その後は積極的な首脳外交を展開した。02、04年に日本の小泉純一郎首相と2度の日朝首脳会談を開き、北朝鮮首脳として初めて拉致事件を認めて謝罪したほか、07年には2度目の南北首脳会談に応じた。自らも中国を4度、ロシアも2度ずつ訪問した。

一方で、2000年代には弾道ミサイル発射や核実験強行などを繰り返し脅威を演出して譲歩を誘う「瀬戸際戦略」も多用。対話と強、硬姿勢を織り交ぜて日米韓や中国など大国を翻弄し、国際社会から多くの見返りを獲得した。

北朝鮮内部では農業政策の失敗などで慢性的な経済不振に陥った。02年7月に成果主義による給与・所得格差の容認など経済改革を推進したが、食糧・エネルギー不足を解消できなかった。

中東へのミサイル輸出や核技術協力を進めたほか、麻薬や偽タバコ、偽札の製造を主導し外貨を稼いだとの疑惑も多い。日本人など外国人拉致事件に加え、多数が犠牲となった87年の大韓航空機爆破事件、韓国閣僚らが死亡した83年のラングーン爆弾テロ事件などの国際テロも、金総書記が指示したとの見方が根強い。

(ソウル支局長 山口真典)

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