2019年8月23日(金)

政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

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商工省入り、満州の経済開発推進 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(1)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

(3/4ページ)
2012/8/5 7:00
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■岸信介に満州行きを勧められる

最初の配属先は工務局工務課であった。工務課は中小企業育成を所管しており、その事務官に先輩の小島新一がいて指導を受けた。入省の翌年、農商務省は農林省と商工省に分離され、椎名がいた工務課は商工省工務局工務課となった。入省の2年後に同課が企画立案した重要輸出品工業組合法が施行された。この法律は乱立する輸出品生産の中小企業を組合に組織化して中小企業育成と輸出振興を同時に達成することをめざしていた。

全国に指導監督に当たる官吏が配置されることになり、椎名は愛知県の工業組合監督官兼商工課長として名古屋に赴任した。愛知県庁勤務は4年間に及んだ。この間、椎名は長兄・後藤幹夫の薦めで大阪の山口銀行重役・森信啓二の娘・公枝と見合い結婚した。また、愛知県見本市の一団を率いて満州を訪問した。このとき、名古屋港と大連港を結ぶ定期便の運行について満鉄当局と折衝して話をまとめあげた。

欧米視察に出発する椎名(左端)と見送る公枝夫人(右端)ら家族

欧米視察に出発する椎名(左端)と見送る公枝夫人(右端)ら家族

昭和4年、椎名は商工省工務局工務課の事務官に復帰した。世界恐慌が始まり、日本では浜口内閣の金解禁・緊縮政策でデフレ不況が深刻化した。不況対策の一環として昭和6年、重要産業統制法が制定された。産業の合理化が叫ばれ、商工省に臨時産業合理局が設置されたのもこの頃である。昭和6年9月、関東軍が満州事変を引き起こし、昭和7年3月には「満州国」が建国を宣言した。こうした中で椎名は同年8月から翌年5月まで欧米各国の不況対策や産業政策を視察する出張を命じられた。

1933年(昭和8年)6月、欧米視察から帰国した椎名は臨時産業合理局の主任事務官になった。この頃、関東軍は各省庁に満州国への人材派遣を求めていた。すでに商工省からは特許局総務部長だった高橋康順が満州国実業部次長として派遣されていたが、高橋次長を補佐する人材をさらに派遣することになり、椎名に白羽の矢が立った。椎名に満州行きを正式に勧めたのは岸信介である。

後に椎名は「岸さんはそのころ文書課の専任参事官で、政策面での対外折衝の窓口に立っていた。万事について飲み込みは早いし、気はきくし、おまけに人付き合いもいい。私は日ごろ、よく切れてちょうほうな人がいるものだと、この3年上の先輩をみていたほどだった。しかし岸さんから満州経営の話を聞いてみると、たいへんな情熱である。『満州問題は日本開闢以来の大問題で、勇断をもって、命がけで取り組まねばならぬ』と熱を込めて語る。私ははじめて岸さんという人間は尋常な事務官ではない、とつくづく見直す気持ちだった。岸さんと私との関係はこのときからのことである」と述べている。

それでも椎名は満州行きに不満だった。左遷人事と見られたからである。工務局長から商工次官になった吉野信次(大正デモクラシーの理論的指導者・吉野作造の実弟)の椎名の評価は芳しくなかった。理由は椎名の大酒と料亭通いである。商工省を辞めることも考え、先輩の小島新一に進退を相談した。小島は商工省を辞めることだけは思いとどまるよう懇々と椎名を説得した。昭和8年10月、椎名は満州国実業部総務司計画科長として満州の新京に赴任した。実業部は日本の商工省と農林省に相当し、部長は満州人だったが、実権は次長以下の日本人官僚が握っていた。司は日本の局、科は課に相当した。

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