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商工省入り、満州の経済開発推進

「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(1)

政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

椎名悦三郎(1898-1979)は人を食ったような言動と飄逸(ひょういつ)とした人柄の個性的な政治家であり、緻密(ちみつ)な仕事師でもあった。戦前は商工省で岸信介とコンビを組んで戦時統制経済を強力に推進し、戦後は池田、佐藤両内閣の外相として日韓国交正常化交渉をまとめ上げた。自民党副総裁時代には「椎名裁定」により保守傍流の三木武夫を総裁に指名して世間をあっと言わせた。

高野長英の後裔、後藤新平の甥

椎名悦三郎は明治31年(1898年)1月、岩手県胆沢郡水沢町(後の水沢市、現奥州市)に生まれた。父親の後藤広は後藤家の婿養子で先妻との間に長男・幹夫、次男・次郎(夭逝)があり、先妻の死後、後妻との間に三男・悦三郎、長女・八重子(夭逝)、四男・四郎、五男・五郎をもうけた。この水沢の後藤家から幕末の蘭学者で開国論を唱えて幕府に弾圧された時代の先駆者・高野長英が出ている。高野長英は悦三郎の4代前の祖先で高野家の養子となった。悦三郎という名前は高野長英の前名・後藤悦三郎からとったものである。

後藤家のあった水沢・吉小路の同じ町内に後藤家の分家があった。後藤新平はこの分家の出身である。悦三郎が生まれた年に後藤新平は児玉源太郎台湾総督の下で総督府民政長官に就任した。児玉大将の死後は桂太郎の側近となり、初代満鉄総裁、第2次桂内閣、第3次桂内閣の逓信大臣になり、寺内正毅内閣では内務大臣、外務大臣を歴任した。同じ岩手県出身の原敬首相に勧められて東京市長になり、第2次山本権兵衛内閣では再び内務大臣になった。スケールの大きな構想力を持った行政マンであり、政界の惑星的存在であった。

悦三郎の父・後藤広は水沢町の助役などを務めたが、やがて政治活動にのめり込み、事業にも手を出して失敗を続け、悦三郎の幼少期に後藤家の家計は困窮を極めていた。悦三郎は地元の尋常小学校、高等小学校を卒業して中学への進学をめざしたが、経済的に困難であった。そのため、東京に出て昼間働きながら夜学校に通う道を選んだ。

最初は実業家宅の書生になったが、なかなか学校に行かせてもらえず、3カ月で実業家宅を飛び出した。次に骨董(こっとう)店主の家に住み込みで働き、研数学館に通い始めたが、人使いが荒く、学校の始業に間に合わなかったり、休まざるを得なかったりで、ここも3カ月で辞めて、同郷の先輩の下宿に転がり込んだ。東京を転々とする悦三郎を心配した父親が上京し、弁護士から地元選出の政友会代議士になった志賀和多利の書生になる話をまとめてくれた。志賀家は昼間の学校に行ってよいという好条件だった。

 悦三郎は東京の私立錦城中学3年の編入試験に合格し、志賀家の書生をしながら錦城中学を卒業した。悦三郎の9歳年長の長兄・後藤幹夫は一関中学を卒業後、東京・麻布の後藤新平邸に寄宿して慶応大学を卒業し、神戸の鈴木商店に就職していた。悦三郎が進学でこれほど苦労したのは、すでに長兄が後藤新平の世話になっており、悦三郎も世話になるのは父親としても頼みづらく、また悦三郎は長兄とは違って後藤家の婿養子の後妻の子だったので、父も悦三郎も遠慮があったとみられる。

仙台の二高時代の椎名悦三郎(右)

錦城中学を卒業した悦三郎は郷里の水沢に戻り、仙台の第二高等学校の受験準備に入った。この頃になると父親が水利権を獲得していた胆沢川の水力発電事業が軌道に乗り、悦三郎の実家も経済的な余裕が出てきた。父親は後に水沢町長、岩手県議になっている。悦三郎は1917年(大正6年)7月、二高の試験に合格し、仙台の下宿で高校生活を送った。二高時代はとにかく本を乱読したと述懐している。二高を卒業した悦三郎は東京帝国大学法学部独法科に進学した。

このとき、悦三郎は後藤新平の実姉で椎名家に嫁ぎ、寡婦になって東京の新平邸にいた椎名初勢の養子になった。名前も後藤悦三郎から椎名悦三郎となり、戸籍の上でも後藤新平と叔父・甥の関係になった。椎名は東大の正門近くに下宿したが、この下宿が友人・仲間の溜まり場になって酒を飲んでは談論風発のような毎日であった。大学2年になって閑静な東中野の下宿に移り、心機一転、高文試験をめざして猛勉強を始めた。

大学時代は後藤新平邸にも頻繁に顔を出した。後藤新平の夫人はすでに亡くなっており、後藤邸内を取り仕切っていたのは養母の初勢だった。まず養母にあいさつし、新平叔父のご機嫌伺いをした後、新平の実弟で後藤邸の執事のようなことをしていた彦七叔父とじっくり酒を酌み交わすことが多かった。椎名は若いころから大酒飲みだったが、酒の飲み方はこの彦七から教えてもらったと述べている。

椎名は東大在学中に高文試験に合格して1923年(大正12年)に農商務省に入省した。農商務省を志望したのは、少年時代に家計が苦しかった経験から「何人も貧困から脱却しなければならぬ。物の行政はそのためにあるんだ。自分はその方面で働いてみたい」と考えたこと、二高の先輩で先に農商務省に入っていた小島新一(後に商工次官、八幡製鉄社長)の影響を受けたことが大きかった。同期入省は8人で、重政誠之(後に農林次官、農相)らがいた。

岸信介に満州行きを勧められる

最初の配属先は工務局工務課であった。工務課は中小企業育成を所管しており、その事務官に先輩の小島新一がいて指導を受けた。入省の翌年、農商務省は農林省と商工省に分離され、椎名がいた工務課は商工省工務局工務課となった。入省の2年後に同課が企画立案した重要輸出品工業組合法が施行された。この法律は乱立する輸出品生産の中小企業を組合に組織化して中小企業育成と輸出振興を同時に達成することをめざしていた。

全国に指導監督に当たる官吏が配置されることになり、椎名は愛知県の工業組合監督官兼商工課長として名古屋に赴任した。愛知県庁勤務は4年間に及んだ。この間、椎名は長兄・後藤幹夫の薦めで大阪の山口銀行重役・森信啓二の娘・公枝と見合い結婚した。また、愛知県見本市の一団を率いて満州を訪問した。このとき、名古屋港と大連港を結ぶ定期便の運行について満鉄当局と折衝して話をまとめあげた。

欧米視察に出発する椎名(左端)と見送る公枝夫人(右端)ら家族

昭和4年、椎名は商工省工務局工務課の事務官に復帰した。世界恐慌が始まり、日本では浜口内閣の金解禁・緊縮政策でデフレ不況が深刻化した。不況対策の一環として昭和6年、重要産業統制法が制定された。産業の合理化が叫ばれ、商工省に臨時産業合理局が設置されたのもこの頃である。昭和6年9月、関東軍が満州事変を引き起こし、昭和7年3月には「満州国」が建国を宣言した。こうした中で椎名は同年8月から翌年5月まで欧米各国の不況対策や産業政策を視察する出張を命じられた。

1933年(昭和8年)6月、欧米視察から帰国した椎名は臨時産業合理局の主任事務官になった。この頃、関東軍は各省庁に満州国への人材派遣を求めていた。すでに商工省からは特許局総務部長だった高橋康順が満州国実業部次長として派遣されていたが、高橋次長を補佐する人材をさらに派遣することになり、椎名に白羽の矢が立った。椎名に満州行きを正式に勧めたのは岸信介である。

後に椎名は「岸さんはそのころ文書課の専任参事官で、政策面での対外折衝の窓口に立っていた。万事について飲み込みは早いし、気はきくし、おまけに人付き合いもいい。私は日ごろ、よく切れてちょうほうな人がいるものだと、この3年上の先輩をみていたほどだった。しかし岸さんから満州経営の話を聞いてみると、たいへんな情熱である。『満州問題は日本開闢以来の大問題で、勇断をもって、命がけで取り組まねばならぬ』と熱を込めて語る。私ははじめて岸さんという人間は尋常な事務官ではない、とつくづく見直す気持ちだった。岸さんと私との関係はこのときからのことである」と述べている。

それでも椎名は満州行きに不満だった。左遷人事と見られたからである。工務局長から商工次官になった吉野信次(大正デモクラシーの理論的指導者・吉野作造の実弟)の椎名の評価は芳しくなかった。理由は椎名の大酒と料亭通いである。商工省を辞めることも考え、先輩の小島新一に進退を相談した。小島は商工省を辞めることだけは思いとどまるよう懇々と椎名を説得した。昭和8年10月、椎名は満州国実業部総務司計画科長として満州の新京に赴任した。実業部は日本の商工省と農林省に相当し、部長は満州人だったが、実権は次長以下の日本人官僚が握っていた。司は日本の局、科は課に相当した。

後藤新平流、大規模な産業調査

椎名が満州国でまず手掛けたのは大規模な産業調査であった。満州国には行政の基礎となるデータがほぼ皆無の状態だった。満鉄調査部の資料は満鉄沿線のものに限られ、北満や辺境部のデータは存在しなかった。経済開発を手掛ける前にまず本格的な調査を実施する手法は叔父の後藤新平が台湾総督府民政長官、初代満鉄総裁時代に実行した手法から学んだものである。

実業部の文書科長兼統制科長となった椎名は実業部の外局として臨時産業調査局の設置をめざして粘り強く財政当局と折衝してこれを認めさせた。調査スタッフは満鉄調査部に協力を求め、さらに日本国内からも公募した。応募した人には直ちに合格採用を出し、統制科嘱託の辞令を渡した。調査局のスタッフは400人規模に膨れあがった。こうした既成事実作りを先行させて椎名は調査局を立ち上げ、自ら調査局調査部長を兼務した。

1898年(明治31年)1月
岩手県水沢町に生まれる
1912年(明治45年)
水沢高等小学校卒業、上京
1917年(大正6年)
仙台の二高に入学
1920年(大正9年)
東大法学部入学、後藤新平の実姉・椎名初勢の養子となる
1923年(大正12年)
農商務省に入省
1925年(大正14年)
愛知県商工課長
1929年(昭和4年)
商工省工務局工務課事務官
1932年(昭和7年)
欧米各国に視察出張
1933年(昭和8年)
満州国実業部総務司計画科長に
1936年(昭和11年)
満州国臨時産業調査局調査部長を兼務
1937年(昭和12年)
満州国産業部鉱工司長

臨時産業調査局の調査は農業、林業、地下資源、水力電源など広範囲にわたり、匪賊(ひぞく)が横行する辺境地にも踏み込んで調査が行われた。目標の3年余りの間にほぼ主要なデータが集まった。北満の農業実態調査は後に日本国内からの満州開拓農民受け入れの基礎となり、水力電源調査によって第2松花江、鴨緑江に大規模水力発電所が建設されることになった。

調査活動が軌道に乗ると椎名は満州国の経済開発の枠組みとなる重要産業統制法の制定作業に取り組んだ。日本国内の同名の法律は不況対策として主要産業のカルテル結成を促進して産業の合理化をはかることをめざしていたが、満州国の統制法は重要産業は一業種一社の国策特殊会社を中心とした徹底した統制経済をめざす根拠法であった。

椎名は満州国の産業開発5カ年計画の策定にも深くかかわった。この計画は昭和12年を初年度とし、昭和16年までの満州における主要な鉱工業品目と農畜産品目の生産目標、運輸通信部門の整備目標を定め、その必要な投資額を算定した計画である。5年間の総投資額は25億円に達した。この計画で主導的役割を果たしたのは関東軍参謀の秋永月三中佐と星野直樹財務部総務司長(大蔵省出身)だったが、鉱工業と農畜産業は実業部の所管であり、計画の基礎データは椎名が主導した臨時産業調査局の調査結果がベースになっていた。

こうした仕事が軌道に乗りかけた1936年(昭和11年)春、商工省の満州派遣組のキャップだった高橋康順が退官して満州財界に入ることになり、代わって関東軍の強い要請を受けてやり手の岸信介が実業部次長(次官に相当)に赴任してきた。椎名は昭和12年7月、実業部鉱工司長になった。このポストは日本の商工省の工務局長と鉱山局長に相当した。満州の経済統制と産業開発は岸・椎名のコンビで推進に拍車がかかった。

昭和12年7月、盧溝橋事件を発端として日中戦争に突入した。日中戦争の拡大に対応して産業開発5カ年計画は上方修正されて総投資額も一段と膨れあがった。また一業種一社の原則も修正され、満州の重工業を集中的に発展させるため、巨大国策会社の満州重工業会社が設立され、その総裁に岸信介は日産グループの総帥・鮎川義介を引っ張り出した。

椎名は5カ年計画の修正や満州重工業の設立などで多忙を極めたが、昭和14年になると満州勤務は6年目に入っていた。椎名は岸に帰国・本省復帰を願い出た。これを聞きつけた鮎川義介は満州重工業の重役となるよう椎名に熱心に働きかけた。鮎川の執拗な誘いを振り切って椎名が帰国したのは昭和14年4月である。

満州時代を振り返って椎名は次のように述べている。「どうしても書きとめておきたいことは、満州の地で、理想に燃えて骨身を惜しまず働いた多くの人々のことである。大学を出て満州の奥地に入り役人になったり特殊会社にはいったりして開拓事業に専心した若者も多かった。働き口の少ない内地とはいさぎよくおさらばして、満蒙の天地に新しい生きがいを見つけようとした貧農の二、三男もいた。みなそれぞれにまじめで、意欲に燃え、満人とも仲よく交わり、それは涙ぐましい努力を重ねたものだ。私は今でも、一緒に働いた同僚たちや、さまざまな形でつき合った人たちのことを思うと胸があつくなる」。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 「記録椎名悦三郎(上下巻)」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)
 椎名悦三郎著「私の履歴書」(私の履歴書第41集収載=70年日本経済新聞社)
 「現代史を創る人びと4(椎名悦三郎インタビュー収載)」(72年毎日新聞社)
 「椎名悦三郎写真集」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)

※写真はいずれも「椎名悦三郎写真集」から

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