政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

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商工省入り、満州の経済開発推進 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(1)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/8/5 7:00
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椎名悦三郎(1898-1979)は人を食ったような言動と飄逸(ひょういつ)とした人柄の個性的な政治家であり、緻密(ちみつ)な仕事師でもあった。戦前は商工省で岸信介とコンビを組んで戦時統制経済を強力に推進し、戦後は池田、佐藤両内閣の外相として日韓国交正常化交渉をまとめ上げた。自民党副総裁時代には「椎名裁定」により保守傍流の三木武夫を総裁に指名して世間をあっと言わせた。

■高野長英の後裔、後藤新平の甥

椎名悦三郎は明治31年(1898年)1月、岩手県胆沢郡水沢町(後の水沢市、現奥州市)に生まれた。父親の後藤広は後藤家の婿養子で先妻との間に長男・幹夫、次男・次郎(夭逝)があり、先妻の死後、後妻との間に三男・悦三郎、長女・八重子(夭逝)、四男・四郎、五男・五郎をもうけた。この水沢の後藤家から幕末の蘭学者で開国論を唱えて幕府に弾圧された時代の先駆者・高野長英が出ている。高野長英は悦三郎の4代前の祖先で高野家の養子となった。悦三郎という名前は高野長英の前名・後藤悦三郎からとったものである。

後藤家のあった水沢・吉小路の同じ町内に後藤家の分家があった。後藤新平はこの分家の出身である。悦三郎が生まれた年に後藤新平は児玉源太郎台湾総督の下で総督府民政長官に就任した。児玉大将の死後は桂太郎の側近となり、初代満鉄総裁、第2次桂内閣、第3次桂内閣の逓信大臣になり、寺内正毅内閣では内務大臣、外務大臣を歴任した。同じ岩手県出身の原敬首相に勧められて東京市長になり、第2次山本権兵衛内閣では再び内務大臣になった。スケールの大きな構想力を持った行政マンであり、政界の惑星的存在であった。

悦三郎の父・後藤広は水沢町の助役などを務めたが、やがて政治活動にのめり込み、事業にも手を出して失敗を続け、悦三郎の幼少期に後藤家の家計は困窮を極めていた。悦三郎は地元の尋常小学校、高等小学校を卒業して中学への進学をめざしたが、経済的に困難であった。そのため、東京に出て昼間働きながら夜学校に通う道を選んだ。

最初は実業家宅の書生になったが、なかなか学校に行かせてもらえず、3カ月で実業家宅を飛び出した。次に骨董(こっとう)店主の家に住み込みで働き、研数学館に通い始めたが、人使いが荒く、学校の始業に間に合わなかったり、休まざるを得なかったりで、ここも3カ月で辞めて、同郷の先輩の下宿に転がり込んだ。東京を転々とする悦三郎を心配した父親が上京し、弁護士から地元選出の政友会代議士になった志賀和多利の書生になる話をまとめてくれた。志賀家は昼間の学校に行ってよいという好条件だった。

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