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鳩山追放、後任に吉田を口説き落とす

「吉田茂を引き出した男」松野鶴平(4)

政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

1945年(昭和20年)8月15日の終戦とともに政党再建の動きが始まった。旧政友会鳩山派の芦田均、安藤正純、植原悦二郎らは軽井沢に引き込んでいた鳩山一郎に上京を求め、鳩山は8月22日に東京・麻布の石橋正二郎邸に入り、新党結成に着手した。東京・音羽の鳩山邸は空襲で半焼しており、長男・威一郎夫人の実家である石橋邸に間借りした。当時、松野鶴平は東京・三田台町の自宅が戦災にあって埼玉県本庄に疎開していたが、新党結成の連絡を受けてこれに参加した。

自由党結成に参加、筆頭総務に

日比谷公会堂で開催された日本自由党の結成大会(1945年11月9日)=朝日新聞社提供

鳩山を総裁とする自由党は11月9日に結党式を挙げた。幹事長は河野一郎、政調会長は安藤正純、総務会長に三木武吉。松野は筆頭総務になった。当初は芦田均が幹事長に有力視されたが、幣原喜重郎内閣の厚相で入閣したため、鳩山と疎遠になり、資金集めで抜群の働きをした河野が指名された。三木武吉は旧民政党出身の外様であり、当時は体調も思わしくなかったので党本部があった東京・丸の内の常盤屋2階にはほとんど姿を見せなかった。毎日のように党本部に顔を出し、党務に励んでいたのは松野と河野の2人であった。本庄の疎開先を引き払った松野は東京・木挽町にある熊本出身の魚問屋の宅に移り住んでいた。

松野は来るべき総選挙の準備を担当した。選挙は松野の最も得意とするところであった。河野は当時では珍しい自家用自動車を駆使してカネ集めに奔走していた。幣原内閣は昭和20年12月10日に衆議院を解散し、総選挙は1月20日に行われる予定が公表された。鳩山自由党の評判は上々で、松野の元には全国から自由党の公認を求める自薦、他薦の候補者が殺到した。この中から当選有望と見られる候補者を絞り込む作業に没頭した。

公職追放も選挙対策仕切る

その矢先の昭和21年1月4日、占領軍は突如として公職追放令を発表した。追放の基準が明らかになるにつれて各政党に衝撃が広がった。昭和17年の翼賛選挙の推薦候補者は全員追放該当者となり、選挙の立候補資格を失った。松野も追放該当者となり、4月10日に延期された総選挙に出馬できなくなった。それでも松野は黙々と党本部に顔を出し、自由党の選挙対策の責任者として働き続けた。

選挙の結果は鳩山自由党が141議席で第1党になり、幹部の大半が追放になって党首不在の進歩党が94議席、片山哲の社会党が93議席、協同党が14議席、無所属81議席という結果だった。第1党の鳩山首班説が有力と見られたが、占領軍は幣原首相が続投して党首不在の進歩党を中心に挙国内閣ができることを希望した。次期内閣の最大の課題は憲法改正案の速やかな議会成立であり、占領軍は幣原首相が最適任で、鳩山では保守的過ぎると判断した。

1945年(昭和20年)11月9日
自由党結成に参加、筆頭総務に
1946年(昭和21年)1月8日
公職追放令に該当
同年4月10日
総選挙で自由党が第1党に
同年5月4日
自由党総裁の鳩山一郎公職追放
同年5月13日
後継総裁に吉田茂を口説き落とす
同年5月22日
第1次吉田内閣発足

これを受けて幣原内閣の楢橋渡書記官長が社会党や無所属議員に働きかけて幣原内閣の居座り工作を展開した。これに対抗して自由党は党務に復帰した三木武吉総務会長と河野幹事長が社会党、協同党、共産党に呼びかけて4党会談を開き、幣原内閣の居座り断固反対を決議した。

多数派工作のメドが立たなくなった幣原首相は4月22日、続投を断念して総辞職を決定した。自由党は社会党との連立で鳩山首班をめざしたが、このころから鳩山追放説が政界に流れ出した。すでに公職追放となった松野は政界の表舞台から姿を消したが、依然鳩山の有力な相談役であった。

当時を振り返り松野は次のように述べている。「白州(次郎終戦連絡事務局次長)がきて、どうも危ないという。内閣を作らなければよさそうだから、誰か他の人にやらせたらどうです、という話だった。党員に知らせたらいけないというので内々相談した。吉田(茂)が外相だから、果たして鳩山が追放に該当するかどうかを調べてもらったが、日本政府に云って来た文書から見て、はっきりした判断がつかない。吉田と話したとき危ないから一応止めさせるかどうか、ということまで相談した。(中略)」

「相談を重ねた最後の結論は、政党総裁で大命を受けられぬとなれば、同志や党員に対して総裁としての資格がないことになる。総裁を辞めるか、進んで自己の信念を通すか、占領下だから無茶をやられるかも知れないが、運命だからこれに任せてやろう、ということであった。追放される前の日、あすは重大なことがある、という情報も入ったが、鳩山は大胆だから平気だったようだ。危ないから避けるという考えも無いわけではなかったが、後を誰にやらせるか、鳩山は吉田以外はいやだ、とさえもいった。いずれにせよ、追放されても党の総裁としてとるべき公的の責任を果たさなければならない、というのが鳩山の信念だった。それを通したのだから僕らも悔いはない」

自由党と社会党の連立交渉は暗礁に乗り上げ、鳩山が自由党単独内閣を組織するハラを固めて組閣名簿をつくり上げた5月4日、追放令が鳩山に下った。鳩山と松野はその日のうちに吉田茂外相と会って自由党の後継総裁になるよう要請したが、吉田は「自分には内政の知識も経験もない」と断り、古島一雄に総裁を頼んだらどうかと提案した。古島はかつて犬養毅の参謀役を務めた老政治家で旧政友会の顧問的な立場だった。その日の夜、麻布の石橋邸で鳩山を中心に松野、三木、河野らが協議し、翌日、鳩山と松野が古島を訪ねて総裁を引き受けるよう頼んだが、古島は「自分は病気であり、80歳を過ぎた老人の出る幕ではない」と拒絶して吉田を推薦した。

 こんどは吉田が外交界の長老で宮内大臣だった松平恒雄を推薦した。河野幹事長もすでに松平の擁立に動いていた。鳩山は松平の説得を吉田に依頼した。松平は会津藩主だった松平容保の六男で一高・東大・外務省のエリートコースを歩み、外務次官、駐米大使、駐英大使を歴任し、幣原と並ぶ親英米派外交官として知られ、秩父宮の外戚であり、昭和天皇の信頼も厚かった人物である。

この間、自由党内では安藤正純、牧野良三らが芦田均の擁立に動き、芦田は松平に会って出馬しないよう勧めている。芦田は総務会でも「後継は党内から選ぶべきだ」と主張して自分を売り込んだが、三木や河野に「出過ぎるな」とはねつけられた。鳩山は自分より5歳若い芦田を後継にするつもりは全くなかった。

未明に塀を乗り越え公邸に乗り込む

しばらくすると吉田から「松平は受ける」という感触が伝えられた。そこで5月12日夜、石橋邸で鳩山、松野、三木、河野らが集まり、鳩山が松平と会って正式に総裁就任を要請し、河野はそのための党内手続きを進めるという段取りを決定した。その直後の13日午前3時、松野は目黒の外相公邸に忍び込み、吉田をたたき起こして最後の吉田説得を試みた。相手を口説いて一度も失敗したことがないというほど松野の説得力は定評があった。

間もなく松平で決まるという土壇場で松野は「君に松平が承諾の返事をくれたそうだが、松平を総裁に迎えるなら、いっそ君が引き受けてくれたらどうか。だんだん考えてみると、われわれが一面識もない松平より、君がやってくれた方がありがたい」と吉田を口説いた。それまで娘の麻生和子・多賀吉夫妻が反対している、岳父の牧野伸顕も反対していると言って渋っていた吉田も松野の説得に心が動き「せっかくそういってくれるなら私も考えよう。明日返事する」と答えた。

鳩山は松野と同じ考えだった。松平は名門で経歴も立派すぎて取っつきにくい面があった。それに比べると吉田は政友会の前身である明治自由党の幹部・竹内綱の実子であり、田中義一政友会内閣で外務次官を務めて政友会系の外交官とみられてきた。戦時中は反東条・終戦工作に奔走した実績があり、吉田の方が明らかに政党人に向いていると松野は判断した。吉田は鳩山より5歳年長だった。

松平擁立に動いていた河野幹事長はその日の朝、鳩山を訪ねて「その後の推移はどうなりました」と聞いた。鳩山は「君、松野という男は愉快な奴でね。あれから君らと別れてから(外相公邸の)塀を乗り越えて、吉田のところへ行ったそうだ」と松野が高い塀を乗り越えて吉田を口説き落とした経緯を話し、「河野君、松平の話は中止しようじゃないか。君に異存がなければそうしたいんだ」と通告した。河野は「私にしてみれば、松野は愉快なやつもないものだが」と不満だったが、渋々了承した。

第1次吉田内閣の記念撮影(1946年5月22日、前列左から3人目が吉田茂首相)=朝日新聞社提供

河野は後に「彼ら3人の間には親交がある。吉田、鳩山、松野という友人間で、幹事長の私が推す松平さんでなしに、吉田さんを総裁に頼もうじゃないか、吉田さんの方も、それじゃ引き受けようということになって話が決まってしまったのである」と回顧している。

鳩山はその日のうちに松平と会って断りを入れ、その帰途に吉田を訪ねて「松平総裁では党内がおさまらないから、こちらから断ってきたところだ。是非君が総裁をやってくれ」と要請した。総裁引き継ぎにあたって鳩山と吉田の間で(1)党資金は鳩山と幹事長が責任を持ち、吉田には迷惑をかけない(2)人事一切は白紙で吉田に委ねる(3)吉田が自分の都合で総裁を辞めるときは吉田を拘束しない(4)鳩山が吉田に辞めてくれというときはいつでも吉田は辞める――という誓約書が交わされた。

この誓約書は吉田と鳩山の仲立ちをした松野が作成したものと河野は推測している。後に鳩山はこの誓約書を根拠に政権譲り渡しを吉田に求め、吉田は誓約書の4項目の存在を否定し、松野は最後まで沈黙を守り通した。第1次吉田内閣は昭和21年5月22日に発足した。吉田は進歩党総裁になった幣原の入閣を求め、自由、進歩両党の連立内閣でスタートした。吉田内閣が発足して間もなく三木武吉、河野一郎も相次いで公職追放になった。

吉田首相の政治指南役は表向きは古島一雄であったが、実質的な指南役は吉田引き出しの中心になった追放中の松野だった。表舞台に立てない松野の自宅を吉田がひそかに訪れることもあったし、松野が深夜に外相公邸を訪ねて吉田と協議することもしばしばあった。河野に代わって自由党幹事長になった大野伴睦も頻繁に松野の自宅を訪ねて党務を相談した。吉田は公職追放中で松野のライバルである大麻唯男を進歩党対策に使うしたたかさも見せた。「うなぎのようにどこへでも入りこんでいく男」と言われた大麻はいつの間にか吉田とも親しくなっていた。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 酒井健亀著「松野鶴平伝」(72年熊本電鉄株式会社)
 松野鶴平著「私の履歴書」(私の履歴書第九集=59年日本経済新聞社)
 鳩山一郎著「鳩山一郎回顧録」(57年文芸春秋新社)
 河野一郎著「河野一郎自伝」(65年徳間書店)

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