2019年2月18日(月)

政客列伝 松村謙三(1883~1971)

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早稲田から報知新聞社に 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三(1)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2012/3/4 7:00
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松村謙三は自民党長老として5回にわたり中国を訪問して周恩来首相と深い信頼関係を築き、日中国交正常化の地固めをした政治家である。終戦直後の幣原喜重郎内閣では農相として第1次農地改革を取りまとめ、本格的な第2次農地改革の先鞭(せんべん)をつけた。誠実・清廉な人柄で親しまれ、中曽根康弘が「最も尊敬して師事した政治家」であった。

■高岡中学の後輩に河合良成、正力松太郎

松村謙三

松村謙三

松村は1883年(明治16年)1月、富山県西砺波郡福光町(現南砺市)に生まれた。生家は薬種商を営む地主の素封家で、その長男である。実母は事情があって松村2歳の時に松村家を離れ、継母によって育てられた。腹違いの弟と妹がいた。松村はこの継母を終生、実母として孝養を尽くした。

福光の立本小学校尋常科・高等科を優秀な成績で卒業して富山の県立一中(富山中学)に入学した。翌年、高岡に県立二中(高岡中学)ができたため、2年生として編入された。松村は高岡中学の第1期卒業生である。在学中に校長排斥運動をして2週間の停学処分を受けている。卒業時の成績は12人中7番だった。

高岡中学の1期後輩に大橋八郎(逓信官僚、終戦時の日本放送協会会長、戦後、電電公社総裁)と河合良成(農商務官僚、第1次吉田茂内閣厚相、小松製作所社長)、2期後輩に正力松太郎(内務官僚、読売新聞社長)がいた。河合の生家は福光の松村家の隣の造り酒屋で、河合はここで生まれ、父親が汽船会社を経営していたので高岡で育った。

▼生誕から報知退社までの歩み
1883年(明治16年)1月
富山県西砺波郡福光町に生まれる
1902年(明治35年)3月
高岡中学卒業
1906年(明治39年)7月
早稲田大学政治経済科卒業
同年
報知新聞入社、経済部記者に
1907年(明治40年)6月
報知新聞名古屋支局長
1908年(明治41年)10月
報知新聞大阪支社長
1910年(明治43年)
大隈重信の関西旅行同行取材
1912年(大正元年)
報知新聞退社、福光町に帰郷

1902年(明治35年)、松村は高岡中学を卒業して東京専門学校(早稲田大学)高等予科に進学した。松村の父親は熱心な大隈重信の改進党支持者であり、その影響もあって大隈の早稲田にあこがれをもっていた。高岡中学の校長がしきりに「官学へ行け」ということに対する反抗心もあって、同級生2人と誘い合って私学の早稲田進学を決意した。父親は薬学の専門学校に行って薬剤師の資格をとり家業を継ぐことを望んだが、松村は粘り強く説得して東京遊学を認めさせた。

父親は松村が上京する際、富山県選出の改進党代議士だった島田孝之に大隈重信、犬養毅、尾崎行雄あての紹介状を書いてもらい、松村にもたせてやった。紹介状をもってまず尾崎を訪ねた。松村が型どおり時候のあいさつをすると尾崎は「君は学生なのに商売人のように暑いとか寒いとか、そのあいさつは何だ。君は一体、何しに来たのか」と一喝した。「実は私学を希望するので、早稲田にでも入ろうかと、ご指導をお願いに参りました」と言うと、第1次大隈内閣の文相だった尾崎は「日本の大学と言うのは金をかけた大学ほど悪い。一番悪いのは学習院である。次は帝国大学である。早稲田あたりは貧乏だからよいであろう」と言った。

松村の在学中に東京専門学校は正式に早稲田大学に改称した。松村は早稲田大学政治経済科の第2回卒業生である。雄弁家として鳴らした永井柳太郎が第1回卒業生で、後に保守合同の立役者となった三木武吉は松村より2年早く東京専門学校法科を卒業した。早稲田出身初の首相となった石橋湛山は松村より1年後に文科を卒業した。後に政界の風雲児になる中野正剛は松村より3年後輩である。

早稲田で松村が最も感銘を受けたのは坪内逍遥と安部磯雄の講義だった。在学中、第二外国語に中国語を選択し、中国語主任の青柳篤恒教授に引率されて中国旅行を経験した。日露戦争の最中であったが、上海から揚子江をさかのぼって南京、漢口、武昌などを訪れた。松村は卒業論文に「日本農業恐慌論」を執筆した。松村が学生時代から中国と農業に強い関心を抱いていたことがよくわかる。政治家・松村謙三が生涯をかけて取り組んだテーマが日中関係と農政であった。

■伊藤博文、大隈重信を取材

1906年(明治39年)、松村は早大を卒業し、報知新聞社に入社し、経済部記者になった。報知新聞は大隈系の新聞で、当時の社長は憲政本党代議士で大隈側近の箕浦勝人(後に逓相)、社主は大隈と並ぶ大株主の三木善八、主筆が佐賀の乱で処刑された江藤新平の遺児・江藤新作であった。江藤は大隈の支援を得て衆議院議員を6期務めたが、胸を患ってこの時期は報知新聞に在職していた。報知は三木社主―箕浦社長が主導した平易さに力点を置く紙面改革で部数を大幅に伸ばし、明治末から大正にかけては押しも押されもせぬ東京の一流新聞であった。

報知新聞に入社し、郷里で結婚した松村謙三(前列右端、左へ父和一郎、祖父清治、母たみ、妻静枝)

報知新聞に入社し、郷里で結婚した松村謙三(前列右端、左へ父和一郎、祖父清治、母たみ、妻静枝)

箕浦社長は報知新聞の基礎を固めるため、学卒の生え抜き記者の育成をめざし、その推薦を早稲田の重鎮・高田早苗に依頼した。高田は松村を呼んで「報知から子飼いの記者を養成したいので適材をよこしてくれと言ってきた。君、どうだ。行ってみる気はないか」と話した。松村は「ぜひお願いします」と即答し、高田の紹介状を持って箕浦を訪ねると「明日から来い」と入社が即決した。

経済部記者時代は今のように記者クラブのないころで、大蔵省で重要会議があると記者は大蔵省の門の前で幹部が出てくるのを待ち構えた。松村は当時の若槻礼次郎次官ののらりくらりとした受け答えに難渋したと記している。入社1年半になって松村は名古屋支局長に転任した。当初は取材応援で名古屋に出張の予定であったが、その直前に名古屋支局長が送った「名古屋銀行で取り付け」という誤報記事で大騒ぎになり、支局長が更迭されてそのまま支局長になった。

名古屋時代に当時、朝鮮統監だった伊藤博文が岐阜の鵜飼(うかい)見物に立ち寄っていつものように豪遊した。松村ら名古屋の記者はこれを追いかけて伊藤の宿舎近くの旅館に陣取って動向を探っていた。泥酔した伊藤は記者団の陣取る旅館にふらりと現れ、どっかと座ってあぐらをかき、酒を飲みながら山県有朋や桂太郎をこき下ろして怪気炎を上げた。

記者団が揮毫(きごう)を頼むと伊藤は気やすく引き受けたが、泥酔していたので、みみずがはうような字だった。秘書官の古谷久綱(後に政友会代議士)があわてて「それは返してくれ。諸君にはきちんとした書を後で進呈するから。それから、さっきの話は絶対に書かないでくれよ」と頼み込んで回ったと松村は記している。

高野山での大隈一行。かごの右が大隈重信夫妻。かごの左が高田早苗。2人おいて後ろが松村謙三

高野山での大隈一行。かごの右が大隈重信夫妻。かごの左が高田早苗。2人おいて後ろが松村謙三

名古屋支局長を1年半務めた後、松村は大阪支社長になった。大阪在任中に東京本社から大隈重信の関西旅行の同行取材を命じられた。大隈は当時、憲政本党(改進党・進歩党の後身)の総理を退任し、世間では政界引退と受け取られた。大隈は足が不自由であったので、旅行には夫人、側近、執事、門下生らが大勢同行し、さながら大名行列のようだった。各地で地元の名士、早稲田校友らに歓迎され、大隈はその都度、一場の演説をして聴衆を喜ばせた。

■父の死で報知退社、福光に帰郷

松村は東京から同行して大隈の動静を事細かく報知新聞紙上に報道した。東京からの途上、沼津の歓迎会で地元の有力者が「大隈伯はこんど政界を引退せられ、教育に専念されて」とあいさつすると、めったに怒ったことのない大隈が「いまのあいさつはとんでもない話である。わが輩は決して政治をやめてはおらんのである。教育とは政治の大なる部門に属するんである」と険しい表情で政界引退説を否定した。憲政本党の総理を辞めた後も大隈は新聞を通して「大隈健在」を世間にアピールすることを決して忘れなかった。この同行取材をきっかけに松村は頻繁に大隈邸に出入りするようになった。

大阪支社長を2年半務めた後、松村は東京本社企画部に転任した。幹部候補生の松村はそこで経営関係の仕事にタッチした。当時、報知新聞の営業局長は頼母木桂吉(後に民政党代議士、逓相)で、松村は頼母木を補佐して新聞社主催の行事・事業に携わった。企画部在職中の1911年(明治44年)、祖父の清治が死去し、翌年1月に父・和一郎が死去した。29歳の松村は長男として家督を相続しなければならない立場にあった。大正元年夏、やむなく報知新聞を退社して郷里の富山県福光町に戻った。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 松村謙三著「三代回顧録」(64年東洋経済新報社)
 松村正直編「花好月圓(松村謙三遺文抄)」(77年青林書院新社)
 田川誠一著「松村謙三と中国」(72年読売新聞社)
 木村時夫著「松村謙三(伝記編上下)」(99年桜田会)

※1、3枚目の写真は「花好月圓(松村謙三遺文抄)」、2枚目は「松村謙三(伝記編上下)」から

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