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川島派を継承、自民党副総裁に

「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(5)

政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

椎名悦三郎外相の国会での変幻自在な「おとぼけ答弁」は世間の注目を集めた。過去の日韓関係について「深く反省する」と述べたことに社会党の戸叶里子議員が「どういう意味か」と質問した。椎名は「しみじみと反省しているという意味でございます」と答弁して議場は爆笑につつまれた。日米安保条約については「アメリカは日本の番犬であります」と答弁し、野党議員が「大臣、そんなことを言っていいのか」とたしなめると再答弁して「番犬さまでございます」と言ってのけた。

変幻自在の「おとぼけ答弁」

衆議院外務委員会で答弁する椎名外相

「吉田書簡」問題では終始のらりくらりの答弁を続けた。昭和38年10月、油圧化機械見本市に来日中の中国視察団の通訳が「台湾か米国に行きたい」と亡命申請した事件が起きた。自民党長老の松村謙三を通じて中国との関係改善を進めていた池田政権はこの通訳を中国に強制送還した。これに台湾当局が激怒して日台関係は断絶の危機に陥った。事態打開のため、池田首相は吉田茂元首相を台湾に派遣した。吉田書簡は蒋介石総統との会談結果をまとめたもので、その中には中国とのLT貿易で合意していた輸銀融資の延べ払いプラント輸出を日本が見合わせることが含まれていた。

佐藤内閣はこの吉田書簡に沿って輸銀融資の対中プラント輸出を凍結した。これにより日台関係は修復されたが、日中関係は悪化した。これほど日本外交に大きな影響を及ぼした吉田書簡の公表を野党は強く求めた。

戸叶里子(社)「その書簡を見るのにはどうしたらよいのか。吉田さんにお願いしたらいいのか。外務省にお願いしたらいいのか」.

椎名外相「それは私信でありますから、すでに台湾に渡った書簡でありますから、台湾のほうにわたったのです」.

戸叶「台湾に行って見てこいなんて、こんな失礼な答弁はまともにうけとれない」。

椎名「台湾に行って見なさいと言ったわけではない。これは私信そのものですから、勝手に私が見せるとも見せないとも申し上げかねます」。

戸叶「外務大臣はこの書簡をご覧になってご存じですね」。

椎名「私はそれを見ておりません。見ておりませんが、その内容は承知しております」。

こんな調子で野党の追及の矛先をかわし、公表を突っぱね続けた。

外相在任の2年半の間に、椎名は国連総会出席3回、欧米各国のほか、ソ連、東南アジア、中南米など世界中を歴訪した。兄貴分の川島正次郎副総裁が「あの無精者がよくまあ動けるものだ」とあきれるほどだった。特に1966年、(昭和41年)1月、現職外相として戦後初めてソ連を訪問し、コスイギン首相、グロムイコ外相と会談して日ソ航空協定を締結したのは画期的だった。

これによってソ連は初めてシベリア上空を開放し、日本からモスクワ、さらにモスクワを経由して欧州の距離が大幅に短縮された。椎名はかねて日ソ関係の改善に意欲を持っていた。叔父の後藤新平が晩年にソ連高官・ヨッフェと接触して日ソ国交打開を模索したことも念頭にあったとみられる。吉田書簡問題で日中関係が悪化したことを踏まえ、日本の外交戦略上からも日ソ関係が重要と考えていた。

 昭和41年12月の佐藤内閣の改造人事で椎名悦三郎は外相から自民党総務会長に転じた。党三役入りは池田内閣の政調会長に続いて2度目である。幹事長は福田赳夫だった。総務会長を1年足らず務めた後、椎名は再び通産相に就任した。池田内閣で初めて通産相になった際は、戦後の通産行政の変貌ぶりに驚いたが、2度目の古巣勤めは手慣れたものであった。昭和43年11月、通産相を退任して椎名は久しぶりに無役になった。岸内閣の官房長官就任以来、椎名は日の当たる道を歩き、ほとんど出ずっぱりで働き続けてきた。

川島副総裁(右)と椎名悦三郎

1970年(昭和45年)10月、佐藤首相は異例の総裁4選を果たした。佐藤4選を推し進めたのは川島副総裁と田中角栄幹事長のコンビである。その直後に川島副総裁が持病の喘息で急死した。椎名は同志全員一致の推薦で交友クラブ(川島派)を継承した。椎名派は衆議院議員19人、参議院議員4人の中間派である。赤城宗徳、浜野清吾を相談役に、松沢雄蔵を幹事長役にして派の運営に当たった。

昭和46年春、池田派を継承した前尾繁三郎が大平正芳のクーデターで派閥会長の座を追われた。前尾の立場に深く同情した椎名は灘尾弘吉を誘って前尾の慰労会を開いた。椎名は外相に推薦してくれた前尾に恩義を感じていた。椎名と灘尾は池田内閣当時の三木調査会で党改革を熱心に語り合ってきた仲だった。椎名、前尾、灘尾の3人は慰労会をきっかけに毎月一回、持ち回りで会合を持つことになり、後に周囲から「3賢人の会」と呼ばれるようになった。

椎名は前尾と灘尾について次のように語っている。「前尾君というのは、いいかげんな政治家が多い中で実によくモノを考える男だよ。それに何よりも私心がないわね。ここでひとつ頑張って点数をかせいでやろうなどということをしない。そういう点では見上げたやつだよ。灘尾君は役人時代からまじめさといい身辺の清潔さといい、群鶏中の一鶴という存在だったな。さすが緒方竹虎の秘蔵っ子弟子だ。いつも正眼に構えてスキがない。その点、彼に及ぶ政治家はいない」

3人とも会合の内容については「ただ飯を食ってバカ話をするだけ」と口をそろえて説明した。椎名は20人規模の派閥・交友クラブを率いていた。前尾は派閥会長の座を追われたものの、大平派内には丹羽喬四郎、小山長規、黒金泰美ら直系議員がかなりいた。灘尾は無派閥だったが、派閥を超えた政策勉強会「金曜会」を主宰していた。この3人の影響力は侮れないものがあり、次第に政局の節目で「3賢人の会」は注目を集めるようになった。

田中首相の要請で台湾へ特使

「ポスト佐藤」の座を争う1972年(昭和47年)7月の自民党総裁選は田中角栄と福田赳夫の対決の構図になった。椎名は田中を支持した。川島派以来、田中とは親密な関係にあり、椎名は田中の決断力を高く評価していた。その一方で、岸派分裂以来、福田との関係は疎遠であった。総裁選は第1回投票で田中が156票、福田が150票で田中が第1位になった。決選投票では日中国交正常化などで政策協定を結んだ大平派と三木派の支持を得て田中が圧勝した。田中が第1回投票で1位になれたのは椎名派の支持が大きかった。

 同年8月、田中首相は椎名悦三郎を自民党副総裁に起用した。大野伴睦、川島正次郎に続く第3代の副総裁である。日中国交正常化を決断した田中首相は副総裁就任要請と同時に、首相訪中に先立って椎名が政府特使として台湾を訪問するよう要請した。椎名は台湾特使を引き受けたが、これは気の重い仕事であった。大平外相は日中国交が正常化されれば、日華平和条約は破棄され、日台間の国交は断絶になると明言していた。

1966年(昭和41年)1月
外相として戦後初のソ連訪問、コスイギン首相、グロムイコ外相と会談、日ソ航空協定に調印
同年8月
内閣改造で外相留任
同年12月
自民党総務会長に
1967年(昭和42年)11月
第2次佐藤内閣で通産相に
1970年(昭和45年)11月
川島正次郎副総裁急死、交友クラブ(椎名派)会長となる
1972年(昭和47年)8月
自民党副総裁に
同年9月
田中首相の要請で政府特使として台湾訪問、日中国交回復の政府方針伝える
1974年(昭和49年)9月
田中首相の要請で政府特使として韓国訪問、日韓関係打開へ朴大統領と会談

これに台湾は激しく反発し、険悪な空気が流れていた。田中首相も台湾の動向を気にしていた。日本は終戦直後、蒋介石総統の寛大な措置で多くの将兵が無事に大陸から帰還できたことに大きな恩義があった。自民党内にも台湾切り捨て反対の声が渦巻いていた。日中国交正常化は時代の大きな流れであったが、できるだけ台湾に礼を尽くし、経済・文化関係や人的交流は従来通り維持したいというのが、田中首相や椎名副総裁の意向であった。

椎名副総裁は台湾出発前に大平外相と会い、日中交渉では台湾にできるだけ配慮するよう求めたが、大平の対応は冷淡だった。昭和47年9月17日、椎名副総裁は首相特使として16人の自民党議員を引き連れて台湾を訪問した。台北空港には「椎名かえれ」などのプラカードを持ったデモ隊が押しかけた。空港から宿舎に向かう途中では椎名らが乗った車に石や卵が投げつけられた。18、19両日、椎名は蒋経国行政院長、沈昌煥外交部長ら台湾高官と相次いで会談した。日中国交正常化に踏み切らざるを得ない日本の事情と台湾とは引き続き経済・文化・人的交流を維持したい日本の方針を伝えたが、台湾側は中国と国交を結び台湾を切り捨てる日本政府の態度に怒りと恨みをぶちまけた。

それを椎名は沈痛な表情でひたすら黙って聞いていた。このとき、蒋介石総統は病床に伏していた。田中首相の蒋介石宛て親書を蒋経国に託したが、蒋介石の田中宛て返書もやはり厳しい内容だった。台北滞在中、台湾側主催のレセプション、午さん会、晩さん会はいっさいなく、椎名一行は宿舎のレストランで食事を済ませた。台湾側の厳しい空気を嫌というほど肌で感じて椎名一行は9月19日夕、帰国した。台湾訪問について椎名は後に「あの時は、ただ忍の一字だった」と述べている。

日米首脳会談のため羽田空港からハワイに出発する田中首相(右)を見送る椎名副総裁(中央)ら=毎日新聞社提供

椎名が台湾から帰国した10日後、田中首相と大平外相は北京で周恩来首相と会談して日中国交正常化で合意し、文書に調印した。そして大平外相は日華条約破棄、日台国交断絶を正式に宣言した。日台関係はその後も紆余曲折があったが、椎名副総裁や灘尾日華議員懇談会会長らの努力によって経済・文化・人的交流関係は維持された。

1974年(昭和49年)8月15日、韓国のソウルで驚愕の事件が起きた。光復節の式典で朴正熙大統領が狙撃され、大統領は無事だったが、陸英修大統領夫人が死亡した。犯人は在日韓国人の文世光。犯行に使われた拳銃は日本の警察から盗み出し、日本の不正旅券で韓国に入国した。続々と明らかになる事実に田中首相らは顔色を失った。日本の警察の失態は否定しようがなかった。

韓国政府は犯行の背後に朝鮮総連の工作があるとして、総連の徹底的取り締まりを日本に強く求めた。韓国世論が激昂し、反日デモが繰り返された。事態を重視した田中首相は19日の陸英修女史の国民葬に出席し、日本政府として深い弔意を表し、朴大統領と会談して「事件の背後関係の究明に日本も全面的に協力する」と表明した。

 当時、日韓関係は「金大中事件」でも険悪になっていた。昭和48年8月、東京・九段のホテル・グランドパレスに滞在中の韓国の反体制政治家・金大中が5人組の韓国人に拉致されて消息を絶った。その7日後に金大中はソウルの自宅に監禁されていることが判明した。犯行はKCIA(韓国中央情報部)部員で在日韓国大使館の一等書記官・金東雲らの犯行と断定され、政府は「韓国の公権力が介入し、日本の主権が侵害された」と強く抗議した。

日韓関係沈静化へ朴大統領と会談

韓国側は「金書記官らの個人的な犯行であり、国内法で処罰する」と釈明し、同年11月2日、金鍾泌首相が来日して田中首相に遺憾の意を伝え「再びこの種の事件が起きぬよう十分自戒する」と述べて事件に一応の政治決着が図られた。ところが韓国政府は昭和49年8月14日、金東雲元一等書記官らはシロと断定したことを日本に通告してきた。木村俊夫外相は「日本の国民感情を逆なでするもの」と反発し、野党やマスメディアも朴政権に激しい批判を浴びせた。その直後に起きたのが文世光事件だった。

金大中事件で韓国政府は受け身に立たされていたが、文世光事件によって一転、日本政府が受け身に追い込まれた。韓国の反日デモは陸英修女史の国民葬後もさらに拡大した。朴大統領は後宮虎郎駐韓大使を呼び、田中政権への強い不信感を表明し、朝鮮総連の徹底取り締まりを強く求めた。米国も日韓関係の険悪化に強い憂慮を示した。田中首相は事態打開のため、椎名副総裁に政府特使として訪韓するよう要請した。かつて日韓国交正常化交渉をまとめた椎名は朴政権に絶大な信頼があった。

韓国の朴大統領(右)と会談する椎名悦三郎(左)

椎名は日韓関係の悪化をこのまま放置することは危険だと考え、特使を受諾した。問題は朝鮮総連の扱いだった。日本の捜査当局は文世光事件の背後に朝鮮総連の工作があったとは立証できないとの立場だったが、韓国政府は朝鮮総連が深く関わっており、日本が韓国政府転覆のテロ活動の基地になっているのは許し難いと主張していた。日韓間、及び国内調整の結果、田中首相の親書に日本政府の道義的責任を認め、韓国政府転覆のテロ活動の取り締まりに全力を挙げることを明記し、朝鮮総連の扱いについては椎名副総裁が朴大統領に口頭で説明することになった。

昭和49年9月19日、椎名副総裁は政府特使として韓国を訪問し、直ちに青瓦台で朴大統領と長時間会談した。椎名は大統領に田中首相の親書を手渡し、朝鮮総連については「昭和30年以来、破防法の調査対象団体として厳しく監視しており、今後とも厳格に調査活動を続ける方針である。朝鮮総連等の団体の構成員によるか否かを問わず、貴国政府の転覆を意図する暴力行為や貴国要人に対するテロの準備等の犯罪行為についてはその取り締まりによって防止と抑制のため最善を尽くす方針である」と口頭で大統領に説明した。

朴大統領はこれを了解し、椎名の口頭説明は文書にして後宮駐韓大使がサインして韓国側に提出された。椎名は朴大統領に金大中問題について「韓国側の捜査結果には不満であり、金大中の早期出国を許可すべきである」との日本の立場を伝えた。朴・椎名会談によって日韓関係の悪化は収拾され、韓国内の反日デモは沈静化した。椎名訪韓には坪川信三、金丸信、宇野宗佑、山村新治郎、中村弘海の6人の国会議員が同行した。田中内閣は三木武夫副総理、福田赳夫蔵相の相次ぐ辞任で弱体化し、国内政局でも椎名副総裁の存在が大きな注目を集めていた。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 「記録椎名悦三郎(上下巻)」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)
 椎名悦三郎著「私の履歴書」(私の履歴書第41集収載=70年日本経済新聞社)
 「現代史を創る人びと4(椎名悦三郎インタビュー収載)」(72年毎日新聞社)
 「椎名悦三郎写真集」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)

※1、2、4枚目の写真は「椎名悦三郎写真集」から

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