2019年8月18日(日)

政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

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川島派を継承、自民党副総裁に 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(5)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

(2/4ページ)
2012/9/2 7:00
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昭和41年12月の佐藤内閣の改造人事で椎名悦三郎は外相から自民党総務会長に転じた。党三役入りは池田内閣の政調会長に続いて2度目である。幹事長は福田赳夫だった。総務会長を1年足らず務めた後、椎名は再び通産相に就任した。池田内閣で初めて通産相になった際は、戦後の通産行政の変貌ぶりに驚いたが、2度目の古巣勤めは手慣れたものであった。昭和43年11月、通産相を退任して椎名は久しぶりに無役になった。岸内閣の官房長官就任以来、椎名は日の当たる道を歩き、ほとんど出ずっぱりで働き続けてきた。

川島副総裁(右)と椎名悦三郎

川島副総裁(右)と椎名悦三郎

1970年(昭和45年)10月、佐藤首相は異例の総裁4選を果たした。佐藤4選を推し進めたのは川島副総裁と田中角栄幹事長のコンビである。その直後に川島副総裁が持病の喘息で急死した。椎名は同志全員一致の推薦で交友クラブ(川島派)を継承した。椎名派は衆議院議員19人、参議院議員4人の中間派である。赤城宗徳、浜野清吾を相談役に、松沢雄蔵を幹事長役にして派の運営に当たった。

昭和46年春、池田派を継承した前尾繁三郎が大平正芳のクーデターで派閥会長の座を追われた。前尾の立場に深く同情した椎名は灘尾弘吉を誘って前尾の慰労会を開いた。椎名は外相に推薦してくれた前尾に恩義を感じていた。椎名と灘尾は池田内閣当時の三木調査会で党改革を熱心に語り合ってきた仲だった。椎名、前尾、灘尾の3人は慰労会をきっかけに毎月一回、持ち回りで会合を持つことになり、後に周囲から「3賢人の会」と呼ばれるようになった。

椎名は前尾と灘尾について次のように語っている。「前尾君というのは、いいかげんな政治家が多い中で実によくモノを考える男だよ。それに何よりも私心がないわね。ここでひとつ頑張って点数をかせいでやろうなどということをしない。そういう点では見上げたやつだよ。灘尾君は役人時代からまじめさといい身辺の清潔さといい、群鶏中の一鶴という存在だったな。さすが緒方竹虎の秘蔵っ子弟子だ。いつも正眼に構えてスキがない。その点、彼に及ぶ政治家はいない」

3人とも会合の内容については「ただ飯を食ってバカ話をするだけ」と口をそろえて説明した。椎名は20人規模の派閥・交友クラブを率いていた。前尾は派閥会長の座を追われたものの、大平派内には丹羽喬四郎、小山長規、黒金泰美ら直系議員がかなりいた。灘尾は無派閥だったが、派閥を超えた政策勉強会「金曜会」を主宰していた。この3人の影響力は侮れないものがあり、次第に政局の節目で「3賢人の会」は注目を集めるようになった。

■田中首相の要請で台湾へ特使

「ポスト佐藤」の座を争う1972年(昭和47年)7月の自民党総裁選は田中角栄と福田赳夫の対決の構図になった。椎名は田中を支持した。川島派以来、田中とは親密な関係にあり、椎名は田中の決断力を高く評価していた。その一方で、岸派分裂以来、福田との関係は疎遠であった。総裁選は第1回投票で田中が156票、福田が150票で田中が第1位になった。決選投票では日中国交正常化などで政策協定を結んだ大平派と三木派の支持を得て田中が圧勝した。田中が第1回投票で1位になれたのは椎名派の支持が大きかった。

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