2019年7月17日(水)

政客列伝 保利茂(1901~1979)

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吉田自由党に合流、労相で入閣 「いぶし銀の調整役」保利茂(3)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2011/10/2 12:00
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社会、民主、国協3党連立の芦田内閣で保利茂は非議員ながら芦田民主党の筆頭副幹事長として党務にあたっていた。しかし、芦田内閣は1948年(昭和23年)秋、昭電疑獄の拡大によって行き詰まった。芦田首相の右腕とも言うべき栗栖赳夫安本長官に続いて、内閣の支柱であった社会党の西尾末広副総理が10月6日に逮捕されるに及んで、10月7日、芦田内閣は総辞職した。

吉田首相(右)と犬養民主党総裁=毎日新聞社提供

吉田首相(右)と犬養民主党総裁=毎日新聞社提供

■吉田首相と極秘に会談、意気投合

後継は第1党の吉田民自党内閣とみられていたが、波乱が起きた。

「山崎首班事件」である。吉田内閣の復活を望まないGHQ民政局が民自党幹事長の山崎猛を首班として民主、社会、国協党などが協力する内閣を画策した。民自党内では山口喜久一郎、星島二郎らが同調しているとみられた。

まだ目黒の外相官邸にいた芦田総裁を保利が訪ねると、民主党の青年将校といわれた椎熊三郎、中曽根康弘らが入ってきた。「民自党の山崎を民主党としても推そうじゃないですか」「山崎は受けますよ」「民自党の方も大体、そんな空気になっているから、やると面白いことになりますよ」などと芦田に詰め寄った。保利によるとこの時、芦田は「そりゃ君たち、ここにいる保利君もよく知っているが、山崎君という人はそんなことのできる器じゃないよ」と否定的だった。

▼初入閣までの主な出来事
1948年(昭和23年)10月
芦田内閣が総辞職、第2次吉田内閣発足
1949年(昭和24年)1月
衆院選で吉田民自党が圧勝、民主党は惨敗
同年2月
第3次吉田内閣が発足
同年3月
民主党の連立派と野党派が分裂
1950年(昭和25年)1月
吉田内閣に入閣していた稲垣平太郎と木村小左衛門が「連立は民主党一本化が前提」として閣僚を辞任
同年3月
民主党27議員が民自党に合流。民自党は党名を自由党に変更
同年4月
民主党野党派は国民協同党と合同して国民民主党を結成
同年6月
内閣改造で保利茂が労相として初入閣

保利もこの話は筋が通らない、政治道義に反すると考えた。首相指名選挙前日の10月13日の民主党代議士会で保利は芦田に「総裁が最後に山崎の推薦に反対する発言をしてください」と念押しした。芦田も「やるよ。心配するな」と答えたが、代議士会では賛成意見が相次ぎ、芦田はついに何も発言しないまま、山崎推薦が民主党の党議となった。

昭電疑獄で大打撃を受けた芦田民主党は吉田内閣による早期解散を恐れていた。芦田自身にも捜査の手が及んでおり、芦田の意向も吉田内閣阻止に傾いた。しかし、この騒動は民自党が首相指名選挙当日の10月14日に山崎を議員辞職させてあっけなく幕切れとなり、吉田茂が首相に指名されて第2次吉田民自党内閣を発足させた。

保利はこの時の民主党の対応に抗議して副幹事長の辞表を提出した。野党に転落した民主党に追い打ちをかけるように芦田総裁が12月7日に逮捕・収監された。民主党は同月10日の党大会で、7月に追放解除になったばかりの非議員の犬養健を新総裁に選出した。民自党単独少数の吉田内閣は野党の内閣不信任案を受ける形で12月23日に衆議院を解散し、総選挙は1949年(昭和24年)1月23日に行われることになった。

第2次吉田内閣ができた直後、保利はひそかに吉田首相と会談した。大麻唯男の仲介だった。大麻は当時、公職追放の身だったが、吉田に頼まれて政界の裏工作にあたっていた。保利は吉田のせいで公職追放になったと恨んでいたからこれを断ったが、大麻から「そう言わないでオレの顔を立ててくれ」と説得されて目黒の外相官邸に吉田を訪ねた。

初対面の吉田は保利に「一日も早く独立を達成して国民と天皇さまに安心していただかねばならない。犬養君ともずっと相談して賛成してもらっているが、一つ保守合同に手を貸してもらえないか。日本のためなのだから」と口説いた。

保利は「私は長い間追放されていましてね。あなたの手で追放されたと聞いています」と恨みつらみを述べたが、吉田は「ああ、そうですか。それは難儀されたでしょう。私には記憶ありませんが」と受け流し、ひたすら国家国民のために保守勢力の結集が必要だと説いた。保利は吉田の真摯な態度に「つくづく役者が違う」と感心し、吉田の見解に同意した。

犬養は公職追放中のころから野党時代の吉田民自党総裁と接触して保守合同の働きかけを受け、人を介して吉田の後継者含みであることも暗示されていた。保利は犬養から「君も吉田さんに会って本心を確かめてくれないか」と頼まれたが、その当時は保利も公職追放の身だったので「日陰の身でコソコソ会うようなまねはしたくない」と断っていた。犬養も保利も清新な保守党をめざして芦田を擁立して民主党を結成したが、芦田内閣が昭電疑獄でつぶれ、芦田も訴追を受ける身になった。危機に陥った民主党を救うために、独立達成を大義名分として民自党との合同に活路を見いだそうとした。

■民主党、連立派と野党派に分裂

昭和24年1月の総選挙で吉田民自党は264議席で圧勝し、民主党は69議席、社会党は48議席、国協党は14議席で惨敗した。保利は唐津で選挙結果を見届け、直ちに上京して信濃町の犬養邸に向かった。

広川民自党幹事長(右)と協議する保利民主党幹事長=朝日新聞社提供

広川民自党幹事長(右)と協議する保利民主党幹事長=朝日新聞社提供

民自党の圧勝で保守合同は立ち消えになると保利は直感したが、犬養に会うと、すでに吉田首相と会談した後で「合同の話は既定方針どおり進めたい、というので私も、承知しました、と約束したよ」という話だった。吉田首相と犬養総裁は1月26日の会談に続いて2月10日に会談した。その後、2人そろってGHQのマッカーサー総司令官を訪ねて連立政権樹立で合意したことを報告した。

2月9日、保利は民主党幹事長に就任した。党内では芦田前総裁を中心に閣外協力にとどめるべきだとする野党派の声が強かった。犬養総裁は連立へ遮二無二突進し、連立派の保利は党内取りまとめに苦慮した。2月16日の首相指名選挙では民主党議員全員が吉田に投票したが、野党派にも配慮して第3次吉田内閣には中間派の稲垣平太郎と木村小左衛門の2人の入閣にとどめ、ひとまず分裂を回避した。保利は吉田首相に会い「本当に(合同を)おやりになるのですか。あなたの党にも強い異論があろうと思いますが」と念押しした。

吉田首相は「日本のためにぜひそうしてもらいたい。どうしても講和にもっていくためには、統一した保守党が責任を持ち、民族100年のためにその功罪を一身に負うという体制でやりたい。広川(弘禅)君によく話しておくから、よろしく頼む」と強調した。

広川は山崎首班構想の動きをいち早く吉田に注進し、吉田のお気に入りになった人物である。合同に向けた広川民自党幹事長と保利民主党幹事長の協議が始まると両党内から強烈な反対論が噴出した。民主党内では犬養、保利らの連立派と芦田均、苫米地義三、北村徳太郎らの野党派の対立が深刻になった。

芦田は「内閣不信任案をぶつけて解散になったのに、選挙後に連立・合同するのは筋が通らない。民主党は反吉田の看板を下ろしてはならない」と強硬に反対した。民主党の連立派と野党派は昭和24年3月8日、ついに分裂した。連立派は衆参両院議員41人。犬養総裁、保利幹事長、小坂善太郎政調会長の布陣である。野党派は衆参61人、苫米地最高委員長、北村幹事長、千葉三郎政調会長の布陣となった。

■犬養問題で難航した合同交渉

民自党内では鳩山一郎に近い大野伴睦が「犬養の入党に断固反対する」と声高に唱えた。犬養の入党が吉田の後継者含みであるとの説が民自党内を強く刺激した。幣原喜重郎一派も犬養がかつて進歩党内で「幣原排斥、芦田擁立」の急先鋒(せんぽう)だったことから「犬養入党絶対反対」の決議を広川幹事長に突きつけた。こうした党内情勢を見て広川は「とても犬養を迎えての合同はできないよ」と保利に伝えた。保利は合同がご破算ならそれで仕方ないと考えたが、念のためにもう一度吉田に会って真意をただした。

第3次吉田内閣に労相として入閣した保利茂(3列目中央)=毎日新聞社提供

第3次吉田内閣に労相として入閣した保利茂(3列目中央)=毎日新聞社提供

吉田は「広川がそんな気の弱いことを言いましたか。私の考えは寸毫(すんごう)も変わりません。もう広川相手に話をしなくても結構です。今後は林(譲治)君を相手に話してください」と話した。広川と大野は折り合いが悪かったが、大野と林はツーカーの仲である。2人は戦前の政友会から鳩山の子飼い議員で、林は吉田とまたいとこの関係にあり、吉田の信頼が厚かった。

温厚な林は保利にとって話しやすい相手だったが、大野伴睦は犬養入党反対の態度を変えなかった。保利は合同の条件として広川にも林にも「合同はそちらからの申し入れであり、こちらの名分を立てるために何として党名を変更してもらいたい」と申し入れていた。保利にも弱みがあった。民主党連立派内には「連立はいいが、合同には反対」という議員が少なくなかった。木村小左衛門、山本利寿、早稲田柳右ヱ門、中村又一らであった。野党派は「民主党一本化工作」と称して、こうした議員の切り崩しに出て連立派は劣勢に立たされた。

1950年(昭和25年)1月、民主党から吉田内閣に入閣していた稲垣平太郎と木村小左衛門が「連立は民主党一本化が前提」として閣僚を辞任した。民自党の林厚相は保利に「20人以上連れて来たら党名変更に応じる」との条件を示した。吉田首相は難航していた犬養健の扱いについて「犬養君の身柄は一つ私に預ける、ということにはいきませんか。あなた方犬養君の同志にはご迷惑をかけない」と提案した。

吉田の提案は、犬養の入党を当面見送ってしばらくは無所属にとどまり、近い将来に吉田が責任を持って処遇するという内容である。犬養は吉田と会い「身柄を預けましょう」と了承した。保利は連立派議員と面談して一人ひとりに意思を確認した。その結果、衆議院では坪川信三、小坂善太郎、田中伊三次、大西正男、久野忠治ら22人、参議院から5人が民自党への合流に同意した。民自党は昭和25年3月1日、これらの議員を迎え入れて党名を「自由党」に変更した。民主党野党派は同年4月、三木武夫らの国民協同党と合同して「国民民主党」を結成した。犬養健は無所属となり、「政界の孤児」といわれた。

吉田首相は同年6月の内閣改造で新参の保利茂を労相に抜てきした。当選3回、49歳の初入閣である。吉田は幾多の困難を乗り越えて合流にこぎ着けた保利の能力と粘り強さを高く評価した。しかし、保利の入閣には「親分の犬養を政界の孤児にして自分だけが大臣になった」との悪評がつきまとった。自由党内でも大野伴睦らは保利を白眼視した。保利にとってはせっかくの初入閣も「針のむしろ」のような心境だった。唯一の救いは吉田首相が絶対的な信頼感を示してくれたことであった。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 保利茂著「戦後政治の覚書」(75年毎日新聞社)
 岸本弘一著「一誠の道」(81年毎日新聞社)
 保利茂伝刊行委員会編「追想保利茂」(85年同刊行委員会)

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