/

改進党結成、幹事長に

「日中関係に賭けた情熱」松村謙三(5)

政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

1946年(昭和21年)1月4日、占領軍は公職追放令を出した。幣原喜重郎内閣にはこの追放令に抵触する閣僚が5人いた。松村謙三農相、堀切善次郎内相、前田多門文相、田中武雄運輸相、次田大三郎国務相(書記官長)である。松村は昭和17年の翼賛選挙に推薦候補で当選していたし、翼賛政治会の総務・政調会長、大日本政治会の幹事長を務めたことも追放令に該当していた。幣原内閣はパニックに陥った。

公職追放令該当で農相辞任

臨時閣議に集った幣原内閣の閣僚。後列右端が松村謙三(1946年1月6日)=朝日新聞社提供

幣原首相はこの当時、病気で寝ていたが、マッカーサー司令官の抜き打ち的な追放令に憤激して「こんなことでは政治の運営はできない」と内閣総辞職を決意した。閣議では松村農相が「追放令に該当する閣僚が辞めればいいのであって、内閣総辞職の必要はない。この難局にあって総辞職は好ましくない」と主張し、各閣僚もこれに同調した。幣原首相に翻意を促すため松村農相と次田書記官長が幣原邸に赴いた。幣原の辞意は固く、松村が後継首相について「良心をもって奉答しうる後任の人をもたれているか」と尋ねると、幣原は「念頭にあるのは枢密顧問官の三土忠造氏だけである」と答えた。

三土忠造は旧政友会の長老で、高橋是清の側近だった人物である。松村は「いま日本の時局は存亡の重大危機である。総理大臣たる資格の第1の条件としては、国際的知識と経験とをあげなければならない。これは国家の興廃にかかる大事である。いかにも三土氏は財政通として知られているが、かつて国際外交の知識経験者であることを聞かぬ。はたして国政を担当しうるか。ご下問に対して、貴下は良心をもって安心して奏請しうるかどうか」と迫った。幣原は涙を流し「そう言われると熱湯を飲まされる思いがする。胸の中が熱くなる」と言って沈黙し、しばらくすると絞り出すように「一身の事にかかわるべき場合ではない。諸君の要請に応えて留任することにする」と辞意を撤回した。

松村ら5閣僚は1月12日に辞任した。この時、厚相として閣内にいた自由党の芦田均はその日記に「松村氏の態度は実に立派だった」と記している。辞任にあたって松村は後任農相に河合良成次官を推薦したが、内相に内定した三土が入閣の条件として農相に副島千八を推薦したので河合農相は実現しなかった。河合は幣原内閣の後の第1次吉田内閣で厚相として入閣する。

松村の所属する進歩党は公職追放令で大打撃を受けた。町田忠治総裁、鶴見祐輔幹事長ら大半の議員が立候補資格を失い、生き残った現職議員は斎藤隆夫、犬養健ら10人程度であった。同年4月の戦後第1回の総選挙に松村は出馬できなかった。この選挙で鳩山一郎の自由党が第1党になったが、組閣直前に鳩山は公職追放となり、自由党総裁には吉田茂が担ぎ出された。

吉田と松村は東久邇宮、幣原両内閣でともに閣僚だった。吉田は松村に電話で「町田さんに会いたい」と頼んできた。松村がセットした吉田・町田会談で吉田は「総裁を引き受けていいものかどうか」と相談した。町田は「この難局を収拾するため引き受けるのがよかろう」と勧めた。すると吉田は進歩党の協力を求め、進歩党総裁になった幣原が吉田内閣に入閣するよう説得してほしいと町田に頼み込んだ。松村は吉田の抜け目のなさに感心した。

悠々自適の追放生活

松村が正式に公職追放の指定を受けたのは同年8月31日だったが、農相を辞任してから事実上、公職追放生活に入っていた。松村は4男3女をもうけたこ乃夫人と昭和5年に死別し、翌年に東京女子高等師範学校教諭の平山久子と再々婚したが、1男をもうけた久子夫人とも2年半後に死別し、以降は妻をめとることはなかった。戦後は夫が戦死した次女の小堀治子一家を手元に引き取り、松村の身の回りの世話は主に治子があたった。

1946年(昭和21年)1月12日
公職追放令該当で農相辞任
同年8月31日
公職追放の指定受ける
1951年(昭和26年)8月6日
追放解除、直後に新政クラブ結成
1952年(昭和27年)2月8日
改進党結成、中央常任委員会議長に
同年10月
総選挙で7回目の当選、政界復帰
1953年(昭和28年)6月15日
改進党幹事長に就任

松村は6年に及んだ公職追放生活について「この追放のおかげで、私は生涯またとあるまい、と思うほどの悠暢かつ快適な日々に心からひたることができた」と述べている。松村の自宅は小石川坂下町にあったが、戦災で焼け出され、練馬の谷原町に疎開していた。町田忠治も戦災にあって松村の向かいに引っ越してきた。町田は冬場の燃料を確保するため近くの鷺宮の林を購入した。戦後、町田は牛込南榎町の旧宅に戻り、松村は武蔵野の自然を残す鷺宮の林を町田から譲り受けた。林の中に質素な家屋を建てて、以後そこに住み続けた。これが鷺宮の松村邸である。

松村は「私ほど閑静に追放生活を楽しんだものはそう多くあるまい」と述べている。知人に勧められて林の中に密生するクヌギを利用してしいたけ栽培に乗り出した。これが大当たりで大量のしいたけが取れて、市場にも出荷するほどだった。松村は趣味として中国蘭の栽培にも精を出した。全国から中国蘭のさまざまな品種を取り寄せ、鉢植えを丹精込めて栽培した。やがて開花した蘭を毎年、皇后に献上するようになった。追放中の生活費は福光町に所有する山林を切り売りして賄った。

松村の政治の師である町田忠治は昭和21年11月に死去した。松村は「町田忠治翁伝」を執筆し、石橋湛山の東洋経済新報社の協力を得て出版した。松村は追放中、幣原との接触を欠かさなかった。進歩党は昭和22年4月の総選挙の際に芦田を迎え入れて民主党となり、片山哲連立内閣に加わったが、幣原は石炭国管法案に反対して同志24人と民主党を脱党して吉田自由党に合流した。松村は幣原が衆議院議長に就任する際も「引き受けないように」と進言していた。

重光葵を総裁に担ぎ出す

昭和27年12月の改進党臨時党大会。右から松村謙三、大麻唯男、重光葵総裁、清瀬一郎幹事長、三木武夫

1951年(昭和26年)1月、松村は幣原衆議院議長と会って自由党からの離脱を促し、幣原一派と旧民政党グループ、野党の国民民主党が合同して保守新党を結成すべきであるとの政界再編構想を提示した。幣原もこれに賛同したが、同年3月、心筋梗塞で死去した。幣原を党首とする新党構想は潰えたが、松村はもう一人の新党総裁候補として重光葵に目をつけ、その周辺とも接触を始めていた。重光は東条、小磯、東久邇宮各内閣で外相を務め、松村は面識があった。A級戦犯として服役して昭和25年11月に仮出所したばかりであった。

松村謙三は昭和26年8月、公職追放解除となった。この直後に大麻唯男ら旧民政党出身者と「新政クラブ」を結成し、吉田自由党に対抗する新たな政治勢力の結集をめざし、国民民主党との合同交渉に入った。芦田、三木武夫ら有力者と折衝を重ねた結果、1952年(昭和27年)2月「改進党」の結成にこぎ着けた。総裁は空席、中央常任委員会議長に松村、幹事長に三木、政策委員長に北村徳太郎が就任した。

改進党結成の時点ではまだ重光葵の追放は解除されていなかったが、3月に解除されると松村と大麻は重光総裁擁立に動いた。三木幹事長が難色を示したが、三木も他に総裁候補を持っていなかった。改進党は5月、重光擁立を決定し、その扱いを松村に一任した。党の決定を受けて松村は鎌倉の重光邸を訪問して正式に総裁就任を要請したが、重光は色よい返事をしなかった。重光の口ぶりに外務省同期の芦田への遠慮があることを察した松村は芦田に重光への説得を依頼した。

芦田の心境は複雑だった。重光をよく知る芦田は「外交官としては事務的に優れていても政治家としてはどうか」と感じていたし、収賄事件の裁判さえなければ「本来は自分が」という思いも強かった。しかし、ほかに総裁の適任者もいなかったので芦田は松村の要請を引き受けた。芦田が直接、重光の説得に乗り出した結果、重光も総裁就任要請を受諾し、6月に正式に総裁に就任した。

政党運営の経験がない重光総裁は三木幹事長とソリが合わず、もっぱら大麻と松村を頼りにした。昭和27年10月の総選挙で松村は改進党から出馬して7回目の当選を飾り、政界復帰を果たした。この選挙で松村の富山県第2区に幼友達の河合が自由党から出馬して松村を驚かせた。河合は松村農相の下で農林次官を務めた後、第1次吉田内閣の厚相となり、その後は小松製作所の社長をしていた。吉田首相の強い勧めで出馬に踏み切り、松村と激戦になったが、松村がトップで当選し、河合も第2位で当選した。

佐藤栄作自由党幹事長(左)と松村改進党幹事長(昭和28年)

吉田派と鳩山派の分裂選挙になった自由党が240議席を確保し、改進党は85議席にとどまった。バカヤロー解散による昭和28年4月の総選挙は吉田自由党が199議席で過半数を大きく割り込み、改進党76議席、左派社会党72、右派社会党66、鳩山自由党36という結果だった。野党が結束すれば吉田内閣を倒せる状況が生まれた。

改進党は「重光首班か、然らずんば野党」の方針で臨んだが、野党連合は実現せず、自由党単独少数の第5次吉田内閣が発足した。吉田首相は政局安定のため、重光改進党に提携を呼びかけ、鳩山自由党には復党を働きかけた。そうした中、松村は昭和28年6月、落選した清瀬一郎幹事長に代わって改進党幹事長に就任した。

改進党の党内事情は複雑だった。右派の芦田派、自由党に近い自改連携派、旧民政党系の大麻派、旧国協党系の三木派、左派の北村派などがあり、まとまりに欠けていた。重光総裁は党内の立て直しのため、敵が少なく温厚なベテランの松村の手腕に期待をかけた。松村はすでに70歳になっていた。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 松村謙三著「三代回顧録」(64年東洋経済新報社)
 松村正直編「花好月圓(松村謙三遺文抄)」(77年青林書院新社)
 田川誠一著「松村謙三と中国」(72年読売新聞社)
 木村時夫著「松村謙三(伝記編上下)」(99年桜田会)
 大麻唯男伝記研究会編「大麻唯男(伝記編)」(96年桜田会)

※2枚目の写真は「大麻唯男(伝記編)」、3枚目は「花好月圓(松村謙三遺文抄)」から

すべての記事が読み放題
有料会員が初回1カ月無料

セレクション

トレンドウオッチ

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
新規会員登録ログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
新規会員登録 (無料)ログイン