2019年8月25日(日)

日米外交60年の瞬間 第3部

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終戦6年後の8.15 サンフランシスコへ(38)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

2012/5/5 7:00
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戦後日本にとって8月15日は特別の日である。1951年8月15日もそうだった。

戦争が終わってからの6年間は、当時の日本人にとって長かったのか、短かったのか。ともあれ、サンフランシスコでの対日講和条約が結ばれるのを1カ月足らず先に控えて迎える終戦記念日だった。

■「講和は学窓出て実社会への第一歩」と日経社説

戦後60年以上が過ぎたいまも、この日の日本の新聞は社説で戦争と平和をとりあげる。当時はなおさらである。

51年8月15日付日経も「占領下の6年間と講和の接近」と題した社説を掲げた。この物語ではしばしば日経社説をとりあげるが、実のところ、出来不出来の差がある。しかし15日付社説は、左右にぶれない、骨太の現実主義に立脚した格調高い内容であり、歴史の評価に堪える。

ただし歴史を感じさせるのも事実である。こんなくだりがある。

「占領下の6年間を修学時代に例えれば、講和は学窓を巣立って実社会に入る第一歩ともいえよう」。現代の読者は奇異に感じるかもしないが、当時の新聞読者の多くは、小学校だけが義務教育だった時代に育った人たちであることを考えれば、当時としては普通の表現だった。

社説は「実社会に出ればいやでも世の荒波にもまれねばならぬが、自分自身で世のなかを渡ってゆく喜びと励みがある」と続け、自立の自覚を説く。

次の一文は特に注目に値する。

「敗戦によって得た民主主義とか自由とかいうものをわれわれが身につけたかどうかを試みるのはこれからである」。「終戦」という、今も当時も当たり前だった言葉を使わず、「敗戦」を使い、「民主主義」と「自由」の価値を冷静に客観的に見つめようとする態度がうかがえる。

日本の軍国主義復活が当時、国内外で語られていた。次の部分も力強い。

「われわれ自身にとっては、軍国主義が復活するかしないかの問題ではなくて、軍国主義を復活させるかさせないかの意思と決意の問題である。もしわが国民の大多数が軍国主義を復活させまいと堅く決心するならば、たとい再軍備をしようが外国から誘いをかけられようが、軍国主義の復活を食止めることは容易である」

ややわかりにくい書き方だが、再軍備は軍国主義の復活ではないと明言しているわけである。

ダレスが訪日時に「日本人が野心を持つことはいいことだ」と述べたことに触れ、「戦前のような間違った野心は困るが、いい意味の野心は絶対必要である」と言い切る。野心を希望と置き換え、「与えられた希望ではなく、自分自身で画いた希望を、他力によってではなく、自分の力で達成するのが講和後のわれわれの責任である」とも述べる。

自立ということなのだろう。日本の外交・安全保障政策を考えるうえでいまもしばしば語られる論点だが、米国と離れることこそが自立と誤解され、不幸な結果を招いた例がその後の日米関係史のなかで、少なくとも2度あった。2度の鳩山政権(鳩山一郎と孫の鳩山由紀夫)時代である。いずれこの物語で触れる。

■ソ連がサンフランシスコ会議出席を通告

この社説の冒頭には「ソ連の講和会議参加は新たな話題を呼んでいるが」と、唐突に挿入されたような部分がある。ソ連の会議参加のニュースが飛び込んできたからである。

ワシントン13日発AP電である。日本時間は14日、つまり社説の執筆中だった。

1951年
4月11日
トルーマン大統領がマッカーサー元帥を連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米極東軍・極東陸軍総司令官から解職。後任にリッジウェー中将
4月16日ダレス特使再来日
6月20日日本政府、第1次追放解除を発表
8月6日日本政府、第2次解除を発表。鳩山一郎ら追放解除される
9月1日米、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋安保条約に調印
9月4日サンフランシスコ講和会議始まる
9月8日吉田首相、対日講和条約、日米安全保障条約に調印
12月24日吉田首相、ダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)

AP電は次のような内容だった。

「米国務省は13日、『ソ連政府は9月4日からサンフランシスコで開かれる対日講和会議への招請を受諾する旨通告してきた』と発表した。発表によれば、この通告は12日、モスクワ駐在のカーク米大使に手交されたもので、その際同時に通告されたソ連代表団の顔ぶれはグロムイコ外務次官を首席に、以下バーニュシキン駐米大使、ザルービン駐英大使および外務省条約局のS・A・ゴルンスキーの諸氏である」

アンドレイ・グロムイコ。冷戦時代のソ連外交の代表的人物である。28年にわたって外相をつとめ、国連安保理で拒否権をしばしば行使し、英語の「ノー」にあたる「ニエット」を連発したため「ミスター・ニエット」といわれた。

既に駐米大使や国連代表を歴任しており、51年段階では国際的知名度のある外交官だったが、サンフランシスコ以降、日本でも知られた顔になる。いうまでもなく、この時点でソ連は日本の北方領土を占領していた。対日講和条約は、北方領土問題をめぐる議論でも重要な節目となる。

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