2019年1月23日(水)

笠井和彦さんを悼む ゲームセットはあまりに突然に

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2013/10/24付
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福岡ソフトバンクホークスの球団社長で、ソフトバンクの取締役だった笠井和彦さんが21日、肺カルチノイドで急逝した。笠井さんの登場する日本経済新聞夕刊のコラム「人間発見」が始まったその日のことだった。連載の1回目が載った新聞が手元に届く夕刻、同時に届いた訃報に言葉を失った。

■勝負師であり詩人

ホークスのジャンパーを着て(東京都港区のソフトバンク)

ホークスのジャンパーを着て(東京都港区のソフトバンク)

笠井さんとの付き合いは長い。富士銀行(現みずほ銀行)の部長時代から二十数年になる。気さくな方だった。若い勉強不足の記者にも、いつもにこやかに対応してくれた。富士銀行の証券部門、国際部門の若手行員は、ほぼ例外なく、笠井さんを慕っていたと思う。

為替や債券の売買で勝ち続けた勝負師の顔を持つ半面、「本当は詩人になりたかったんだ」と聞いた時、なぜか妙に納得したのを覚えている。普段のたたずまいに、どこか余裕や余韻を感じさせる人だった。

詩との出合いは故郷、香川県木田郡三谷村(現高松市)の小学校時代だという。香川大学時代、経済学部の文芸部が発行する同人誌「印象」や、地元の著名詩人、十国修さんの主宰する詩集「詩研究」に作品を発表した。笠井さんの詩が全国同人誌コンテストで優秀賞に選ばれたり、日本の詩人100人に選定されたこともあった。富士銀行に入ってから「俺はいつか詩人として身を立てる。銀行員は世を忍ぶ仮の姿だ」と周囲にうそぶいていたのも、まんざらではなかったのだろう。入行2年目に創立80周年行事として、行内で小説や詩を公募した際も1位となり、賞金5000円をもらった。「今の感覚で50万円くらいかなあ。大阪の堂島支店の同期3人で連日、十三のホルモン焼き屋に繰り出し、大騒ぎしたよ」と振り返る。

そんな牧歌的な支店勤務に転機がきたのは入行5年目の1月。東京の外国資金課への転勤辞令だった。「もうびっくりだった。大阪より東へろくに行ったこともないのに、外国資金って何だよ、という感じ」。戸惑いの中で始まった外国為替との付き合いだったが、ここでの10年間が、笠井さんのその後の人生を切り開く。

■96年債券相場で大勝

為替ディーリングで頭角を現し、ニューヨーク支店長など経て、1990年に常務、91年に専務、92年に副頭取と出世の階段を駆け上がる。為替、債券などマーケット全般を統括するようになった笠井さんが、ディーラーとして真価を発揮したのが96年の債券相場だ。

当時、市場に日銀が利上げをするという噂が流れ、新聞も「日銀、利上げへ」と報じ始めた。笠井さんは担当者を呼んだ。「そんなに資金需要は強いのか」「そうでもありません」「ではなんで利上げなんだ」「よくわかりません」。利上げはないと読んだ笠井さんは、売り一色の債券相場で果敢に買い向かった。じりじり下がる相場、部下は「大丈夫ですか」と心配顔だったが、「マーケットでは当たり前のことしか起きない」と動じなかった。

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