政客列伝 松野鶴平(1883~1962)

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政友会幹事長、米内内閣鉄道大臣に 「吉田茂を引き出した男」松野鶴平(3)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/5/27 7:00
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犬養政友会内閣は1932年(昭和7年)2月の総選挙で圧勝したが、同年の5.15事件で犬養首相が白昼堂々、海軍青年将校に暗殺されて、政党内閣の時代は幕を閉じた。新たに首相となった斎藤実海軍大将は政友、民政両党から閣僚を入れて協力内閣の形を整えた。政友会から入閣したのは高橋是清蔵相、鳩山一郎文相、三土忠造逓相の3人である。

■岡田内閣の総選挙で政友会敗北

斎藤内閣に対して政友会は難しい対応を迫られた。衆議院に絶対多数を持ちながら政権が素通りした鈴木喜三郎総裁は憤懣やるかたなかったが、政友会の元総裁で長老の高橋蔵相は斎藤内閣に協力的だった。鈴木総裁の義弟・鳩山文相も閣内に取り込まれていた。鈴木派の松野鶴平は政党内閣主義の建前から斎藤内閣への非協力、野党的立場をとるべきだと主張していた。

そうした中で独自の立場から軍部に接近していた政友会の森恪幹事長が同年末に急死した。昭和7年12月、松野は森恪に代わって政友会幹事長に就任した。松野幹事長は鈴木総裁の意を受けて野党色を強めたが、高橋蔵相が斎藤内閣に協力的であったため、政友会の態度は徹底しなかった。斎藤内閣は帝人事件で総辞職に追い込まれ、後継首相には斎藤内閣を支えていた岡田啓介海相が就任した。

鈴木総裁、松野幹事長ら政友会主流派は岡田内閣への非協力方針を打ち出したが、岡田首相は政友会に手を突っ込み、反主流派の床次竹二郎、山崎達之輔、内田信也の3人を閣僚に起用した。政友会はこの3人を除名処分にした。藤井蔵相が急死して高橋是清が蔵相として入閣すると、元総裁を除名するわけにもいかないので「決別声明」を発表した。岡田内閣は天皇機関説事件で大揺れに揺れた。この事件を仕掛けたのは枢密院副議長をしていた平沼騏一郎一派であったが、政友会内でも鈴木派の一部や久原房之助派が呼応し、陸軍内では皇道派が積極的に動いた。松野や鳩山はこうした動きにほとんど関与しなかった。

総選挙に臨む政友会幹部。中央着席が鈴木喜三郎総裁。後列右端が松野鶴平幹事長=朝日新聞社提供

総選挙に臨む政友会幹部。中央着席が鈴木喜三郎総裁。後列右端が松野鶴平幹事長=朝日新聞社提供

岡田内閣は天皇機関説事件をかろうじてしのいで1936年(昭和11年)1月、衆議院を解散した。2月の総選挙を前に民政党は与党の立場を鮮明にし、山崎達之輔ら政友会脱党組の「昭和会」も与党の立場をとった。政友会は野党として戦った。政友会の選挙の指揮をとったのは松野幹事長だったが、この選挙では大苦戦に陥った。岡田内閣の後藤文夫内相は「粛正選挙」の名のもとに与党の民政党、昭和会を援助し、野党の政友会を徹底的に締め付けた。

その結果、民政党が205議席を獲得して第1党になり、政友会は171議席で、第2党に転落した。昭和会の22議席と合わせて岡田内閣の与党は過半数に達した。政友会の鈴木総裁は貴族院議員の立場を捨てて神奈川県第2区から出馬したが、あえなく落選した。松野が政友会幹事長だった時期に民政党では熊本1区のライバル・大麻唯男も民政党幹事長になった。大麻は川崎卓吉と幹事長を交代したが、川崎がこの選挙の直前に入閣したため再び幹事長となり、松野の前に大きく立ちはだかった。

■政友会内紛、鳩山派の参謀長に

この選挙の直後に2.26事件が起きて岡田内閣は吹き飛び、高橋蔵相は暗殺された。2.26事件以降、陸軍統制派の政治的影響力が一気に強まり、政党の影響力は大きく低下した。同年4月、松野は幹事長を辞任し、鳩山一郎、中島知久平らととも総務に就任した。政友会では落選した鈴木総裁の威令が及ばなくなり、鳩山、松野ら主流派と中島、前田米蔵ら反主流派の主導権争いが激化した。病身の鈴木総裁は昭和12年2月、総裁を辞める意向を表明した。

1932年(昭和7年)5月
5.15事件で犬養政友会内閣崩壊、鈴木喜三郎が政友会総裁に
同年12月
政友会幹事長に
1936年(昭和11年)4月
政友会総務に
1938年(昭和13年)5月
政友会鳩山派、中島派の対立激化
1939年(昭和14年)4月
政友会が分裂
1940年(昭和15年)1月
米内内閣の鉄道大臣に
同年6月
政友会久原派を離党
1942年(昭和17年)4月
翼賛選挙に推薦候補で当選
同年5月
翼賛政治会総務に

鈴木は後継総裁に鳩山を指名したかったが、軍用機製造で巨額の財をなした中島の勢力が優勢で無理と判断し、臨時の措置として鳩山、中島、前田、島田俊雄の4人を総裁代行委員に指名した。中島派の軍師が前田であったのに対して鳩山派の参謀長は松野であった。島田は当初、鈴木派であったが、このころには前田の働きかけで中島派に転じていた。総裁問題を協議する総裁代行委員会議では中島を後継に押す島田、前田と公選実施を主張する鳩山の間で平行線が続いた。

数で劣る鳩山、松野が中島総裁に強く反対したのは中島、前田が時流に乗って親軍的な態度を示し、カネの力で政友会を乗っ取り、近衛文麿にも接近して新体制運動を進めようとしていることへの抵抗であった。伝統的な政党内閣主義へのこだわりから鳩山、松野は総裁公選で負けたとしても政党としてのスジだけは通すべきだと考えた。

中島、前田は鳩山が主張する総裁公選に歩み寄り、政友会は昭和13年6月20日に総裁選実施のための党大会を開くことを決定した。直前になって両派の激突を懸念した長老の小川平吉が中島派の島田と鳩山派の松野を呼んで仲裁に入り、党大会を無期限に延期して総裁代行委員制を当面維持することになった。

この間、鳩山が「中島総裁にはあくまで反対だが、自分は敢えて総裁に固執するものではない」との意向を示すと、2.26事件への関与容疑で当局の取り調べを受け政界に復帰したばかりの久原房之助が鳩山に急接近してきた。久原と鳩山を結びつけたのは当時、若手代議士だった河野一郎である。河野は鳩山派の劣勢を跳ね返すには久原コンツェルンを率いる久原の財力に頼むほかはなく、総裁を一時的に久原に譲っても仕方がないと考えた。

鳩山はあっさり総裁候補の座から下りて久原に譲ってしまった。松野は久原を総裁候補にすることには反対だった。時流に迎合的で、親軍的であるという点では久原と中島はほぼ同じであった。久原を担ぐならこれまで何のために中島反対運動をしてきたか説明がつかなくなる。お坊ちゃん育ちの鳩山は大事なところで性格的な弱さが露呈することがしばしば見られた。

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