2017年11月19日(日)

「3.11」は「9.11」にあらず
オーストラリア国立大学教授 ケント・アンダーソン氏

2011/6/22付
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 2011年3月11日に相次いで日本を襲った3つの大災害――マグニチュード9.0の地震、高さ10メートルの津波、原子力発電所の危機――以来、大勢の人がこの悲劇を「3.11」と呼び始めた。2001年9月11日に発生した米国の同時多発テロを象徴する「9.11」に倣った表現であり、歴史の分岐点になるほどの大規模な出来事だったことを示唆している。

 そして日本の置かれた困難な状況に、二通りの解釈が示された。

 1つは、20世紀後半に輝きを放った日本の黄金時代に終止符が打たれたという見方だ。日本を抜いて中国が世界第2の経済大国に浮上したこと、日本が深刻な人口動態の高齢化に直面していること、膨れ上がる政府債務に対処する政治的能力への不信感の広がりなどが根拠となった。

 もう1つは、日本が不死鳥のように危機から復活するというものだ。歴史の裏付けとして、19世紀末に進めた近代化、1923年の関東大震災からの再建、第2次世界大戦後の復興などの先例が挙げられた。

 災害の発生直後、私は第3のシナリオがより現実的だと思った。95年の阪神大震災が日本社会の大きな転機とならなかったように、東日本大震災も転機にならないだろうと考えたのだ。実際、95年の政治・経済・社会の激動を経て、96年にすべてが「平常」に戻ったのは驚嘆に値する。自民党は政権に返り咲き、景気の停滞は変わらず、オウム真理教のテロ犯は塀の中だった。東日本大震災は想像を絶する悲劇に違いなかったが、日本社会が根底から変わる前触れとは考えにくかった。

 告白するが、この楽天的な所見では、絶えず放射能の脅威にさらされて暮らす東京の人々へのストレスの影響を過小評価し、たびたび余震が繰り返すことも想定していなかった。地震や津波という自然災害は日本を大きく変化させなかったかもしれないが、福島第1原発事故における人災の側面が解明されるにつれて、経済発展のもたらすコスト、環境問題や政治状況について日本人の心にいつまでも深い影響を残すのではないかと思う。

 地震から3カ月を経た今、私の一般とはやや異なる見解はこうだ。人々の悲劇はそれぞれの場所に存在するが、それ以上に大震災が日本という国を我々の知る姿から変えることはまずないだろう。文化的伝統の重みとしっかり根付いた社会制度は、自然や技術的欠陥のもたらす衝撃をしっかり耐え抜くだろう。

 この見解を支える証拠は何か。

 最近の青森県知事選において75%の得票率で原発推進派の候補が勝利したこと。世界中のニュースの見出しから悲劇の文字が消えたこと。大震災の経済的・社会的影響が、東北地方の太平洋側と北関東に限定されていること。何より重要なのは、菅内閣の不信任決議案を巡る攻防、判然としない首相退陣表明、自民党への「大連立」呼びかけなど、国政が「平常」の混迷状態に戻ったことだ。

 これは悲観論者のメッセージではない。楽観論的なストーリーだ。震災の影響は地域の視点で考えるべきだ。一方、マグニチュード9.0の地震と10メートルの津波による被害に懸命に対処し、技術的な重大危機を福島第1原発の1カ所にとどめたことは、世界のどの国にも勝る高い能力であると評価すべきだ。これほど素早く効果的に問題に対処できる回復力と能力をもつ社会を私は他にまず思いつかない。

 また、自然災害が「最後の審判の日」を暗示するとの予言は、根拠がないばかりか、オウム真理教のようなカルト集団や過激派の反社会的行為を正当化する危険がある。

 3月11日の日本の大震災は、「9.11」とはなり得ない。私は広範囲に多くの命が奪われる悲劇を目にした。しかし何よりも、それは日本の社会制度や伝統が備えている不屈の精神や、国家の非常事態に進んで備える心構え、自然の恐ろしい威力に対峙(たいじ)する日本社会の回復力を示す証しといえるのだ。

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