2019年8月23日(金)

日米外交60年の瞬間 第3部

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踏み絵の講和会議を避けたインド サンフランシスコへ(46)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

2012/6/30 7:00
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1951年9月1日(サンフランシスコ時間)、米国務省は対日講和会議の日程を正式発表した。ソ連が議事手続きを妨害する可能性があり、直前まで日程を固めきれないでいたらしい。

■ソ連封じに結束求める米全権団

米全権団は英連邦諸国などと協議した。その結果、おおむね次のような議事規則で臨むことを決めた。

1 会議に参加する52カ国の全権団は条約草案について見解を述べるため、それぞれ1時間が与えられる。
2 各国全権が仮に時間いっぱいを使うとして52時間を経た後、さらに討議を続けるかどうかを表決する。

ポイントは2である。表決によってソ連の討議続行提案を否決し、米側のペースで会議を進める狙いである。この時点で米側は討議続行提案を否決するに十分な票を得る見通しを持っていたとされる。

1951年
4月11日
トルーマン大統領がマッカーサー元帥を連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米極東軍・極東陸軍総司令官から解職。後任にリッジウェー中将
4月16日ダレス特使再来日
6月20日日本政府、第1次追放解除を発表
8月6日日本政府、第2次解除を発表。鳩山一郎ら追放解除される
9月1日米、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋安保条約に調印
9月4日サンフランシスコ講和会議始まる
9月8日吉田首相、対日講和条約、日米安全保障条約に調印
12月24日吉田首相、ダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)

議事手続きはしょせん議事手続きであり、条約そのものの議論とは関係ないのではないかとの疑問もあるだろう。しかし法律の世界でもそうだが、外交の世界でもしばしば手続きが内容を規定する。

サンフランシスコ条約の手続きに関連していえば、日本の独立、米軍駐留による安全保障条約への署名と流れる政治的な動きは、ソ連には認めがたいものだった。討議続行提案を可決させて米国主導の流れを変えさせたいと考えるのは当然である。

ソ連は議事手続きの問題に本質的議論を絡ませてくる。米側はそう警戒した。条約本体の議論になれば、会議の延長に反対するのは難しくなりかねないからだ。

これには少し説明が要る。再三書いてきたように時代は冷戦下である。会議に参加し、米英が用意した対日講和条約に署名するかどうかは、米国をとるか、ソ連をとるか、いわば体制の選択を意味した。

各国は踏み絵を迫られたのである。しかし簡単に態度を決められない国もある。そのひとつがインドである

■練りに練ったインドの声明

英国から独立したインドは冷戦のなかで非同盟主義の旗手となっていくが、だからこそ、白黒を決めかねる立場だった。加えて東京裁判におけるパル判事の見解もそうであるように、日本に対しては同じアジア人としての感情もあったように思える。

インドは条約に反対する立場をとっていた。しかしそれはソ連側につくことを意味しない。そんな説明が必要だった。

サンフランシスコで全権団の間で事前の駆け引きが行われている1日、インド政府スポークスマンはニューデリーで、条約に反対するインドの態度はソ連支持を意味するものではないとする見解を発表した。

その主張は次の3点だった。

1 ソ連は日本再軍備に反対するが、インドは日本が自国のために再軍備するのには反対しない。インドが講和条約に反対するのは、政治的考慮によるものではなく、主として領土および軍事に関する条項に向けられたものである。
2 インドが対日単独講和を結ぶとの決定は中共(中国)に対する配慮からではない。
3 日本に主権のあるのが明らかな琉球、小笠原を信託統治下に置くことは、将来独仏国境のアルザス・ロレーヌのような問題を引き起こす可能性がある。日米安保条約によって米軍が日本全土に駐留できる以上、琉球、小笠原を信託統治下におくことは不要である。

練りに練った声明である。

1で「政治的考慮によるものではない」と述べ、ソ連の影を否定する。2で中国への刺激を避ける形をとりながら、実は中国を意識している。この意識は21世紀の現在さらに強くなっている。

日本にとって重要な、3は対日連帯メッセージととれる。日本外交にとって琉球つまり沖縄と小笠原の返還は、極言すれば、サンフランシスコ条約を結んだ日から外交課題となったのである。

当時のインド首相はネルーである。上の声明はいかにもネルー率いるインドらしい。ケンブリッジ大学で学んだ弁護士で独立運動の活動家。親日家としても知られた。

1949年に上野動物園に娘と同じ名前の「インディラ」という名前の象を贈った話は、60年代の日本の小学校の教科書にも載るほどの有名な話だった。

1950年代のインドは、世界の大国だった。それは例えば、日経の特派員派遣の歩みからもうかがえる。

経済紙である日経が最初に常駐特派員をおくったのは、講和条約発効直前の52年3月のニューヨーク、ロンドンだったが、これに続き、インドのニューデリーに翌53年5月、西ドイツのボンと同時に支局を設置した。

パリ支局ができたのは54年だったから、それより1年遅い。インドはそれほど重要な国だった。

しかし戦後インドの長い停滞もネルーの責任だったのかもしれない。ネルーは経済は国が主導すべきだと考える社会主義者でもあり、インドは冷戦時代、ソ連寄りの国とされ、経済発展をとげられなかった。

インドの興隆は1990年代初めに冷戦が終わってからである。

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