2019年8月25日(日)

政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

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外相就任、日韓国交正常化成し遂げる 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(4)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

(3/4ページ)
2012/8/26 7:00
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1963年(昭和38年)、民政移管に成功した朴正熙大統領は日韓交渉を早期に妥結させ、日本の資金協力によって韓国の経済発展を進める強い決意を固めた。昭和39年7月には丁一権内閣を発足させ、外務部長官には39歳の側近・李東元を起用して体制を整えた。米国も極東の安定のために日韓の早期和解が望ましいとして、陰に陽に両国に日韓交渉の妥結を働きかけていた。

日韓間の残る懸案は基本条約問題だった。日韓併合条約について韓国は「当初から違法・無効」と主張し、日本は「昭和20年に無効になった」との立場だった。韓国政府の管轄権についても韓国は「朝鮮半島全域を管轄する唯一の合法正当政府」と主張し、日本は「北緯38度線以南」との立場だった。こうした問題は両国のメンツや国民感情が絡んで大きな政治決断が必要だった。

日本では昭和39年9月、池田首相が喉頭がんで入院し、10月25日に退陣を表明した。後継首相には自民党の川島副総裁、三木幹事長の党内調整の結果、佐藤栄作が指名された。佐藤首相は官房長官を鈴木善幸から橋本登美三郎に代えた以外は全閣僚を留任させた。臨時国会の所信表明演説で佐藤首相は日韓交渉の早期妥結方針を明らかにし、椎名外相は早期訪韓を実現して決着を急ぐ意向を表明した。

■金浦空港で「深く反省する」と声明

韓国・金浦空港で声明を読み上げる椎名外相=毎日新聞社提供

韓国・金浦空港で声明を読み上げる椎名外相=毎日新聞社提供

椎名外相の訪韓は1965年(昭和40年)2月17日から4日間と決まった。椎名はこの訪韓で一気に基本条約の仮調印にこぎ着けることをめざした。韓国内の日韓条約反対の世論は険悪で、これが朴政権を苦しめていた。日韓交渉のカギは険悪な韓国世論をどう緩和するかであった。昭和35年、戦後初めて訪韓した小坂善太郎外相は過去の植民地支配について「極めて遺憾」と表明したが、韓国世論は凍り付いたままで小坂外相は冷たく迎えられ、成果を得られず帰国した。

椎名外相訪韓では空港に到着した際のステートメントで過去の日韓関係にどう言及するかについて外務省内でもさまざまな議論があった。椎名は出発の直前に「深く反省する」との文言を入れることを政治決断した。これが椎名訪韓成功の大きな決め手になった。2月17日、「椎名訪韓阻止」を叫ぶ全学連デモ隊と警官隊の小競り合いの中を椎名外相は羽田空港を出発した。金浦空港に到着すると歓迎式典で椎名は用意していたステートメントを淡々と読み上げた。「両国間の永い歴史の中に、不幸な期間があったことは、まことに遺憾な次第であり、深く反省するものであります」

椎名のステートメントは韓国世論の沈静化に大きな影響を与えた。空港から宿舎の朝鮮ホテルに入る際に大勢の反対デモが押しかけていたが、大きな混乱はなかった。表敬訪問に訪れた丁一権首相も李東元外相も椎名のステートメントを高く評価した。17日夜の李外相主催の歓迎レセプションでは欧米の駐韓大使もこぞって椎名ステートメントを歓迎した。

レセプションには韓国記者団も大勢来て「反対デモの感想は」と椎名に尋ねた。椎名は「(韓国紙の)夕刊の反対デモの写真を見てびっくりした。反対デモの先頭にオレがいるんだものな」と答えた。韓国の野党リーダーである尹●(さんずいに普)善元大統領と椎名は風貌がそっくりだった。韓国記者団は大笑いだった。「尹氏と大臣はどちらが年上ですか」という質問に椎名は尹氏の年齢を確かめた上で「それならオレの方が弟分だよ」と答えた。こうしたやりとりも韓国内に伝えられ、韓国世論の緩和に役立った。

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