2019年8月26日(月)

政客列伝 金丸信(1914~1996)

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 日経電子版(Web刊)では、首相になれなかった、もしくはならなかったものの個性的で存在感あふれた戦前戦後の大物政治家の軌跡を紹介する「政客列伝」を掲載しています。今回のシリーズでは竹下派の全盛時代に「政界のドン」と呼ばれ、時の首相を凌駕(りょうが)する権勢を誇った金丸信氏の生涯を振り返ります。

身代わり出馬でトップ当選 「政界のドン」金丸信(2)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2011/8/7 12:00
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1953年(昭和28年)の参議院選挙山梨選挙区に旧内務官僚の広瀬久忠が無所属で出馬した。広瀬は社会局長官、内務次官を経て平沼内閣厚相、米内内閣書記官長、小磯内閣厚相、終戦時の東京都長官などを歴任し、戦後公職追放になった大物で、金丸と親密な名取忠彦山梨中央銀行頭取の実兄であった。

選挙応援に来た佐藤栄作(左)と金丸信(中央)。右は広瀬久忠

選挙応援に来た佐藤栄作(左)と金丸信(中央)。右は広瀬久忠

金丸は名取頭取、天野久山梨県知事の強い要請で広瀬陣営の裏選対に入って選挙運動に本腰を入れた。

裏選対は要するにカネをばらまくのが役割である。広瀬は当選したが、選挙後、金丸は買収容疑で警察から出頭要請を受けた。金丸は取り調べの隙を見て、買収の証拠となる名刺5枚をとっさに飲み込んでしまった。

警察の取り調べもどこか間延びしているように見えた。広瀬が旧内務省の大物だったから多少の手加減があったのだろう。金丸はかろうじて起訴を免れた。広瀬の選挙を命懸けでやったことにより、金丸は政治の世界に大きく足を踏み入れることになった。

■佐藤派入り、当選直後に夫人急逝

岸内閣の下で行われた1958年(昭和33年)5月の総選挙は保守合同後初の総選挙である。山梨全県区には、後に山梨政界で金丸の強力なライバルとなる新人の田辺国男がいち早く出馬表明していた。

田辺の父親の田辺七六は戦前の政友会幹事長を務め、田辺家は山梨政界の名門だった。これに対して広瀬も参議院からのくら替え出馬を目指していた。広瀬は緑風会幹事長を経て保守合同後に自民党に入党し、当時は芦田均、清瀬一郎らと並ぶ改憲論の急先鋒であった。

▼政界入りから陣笠時代にかけての歩み
1953年(昭和28年)4月
参院選に出馬した広瀬久忠の裏選対に入る
1958年(昭和33年)5月
衆院選。くら替えを目指した広瀬の代わりに初出馬。山梨全県区でトップ当選
同年6月
玲子夫人が急逝
1960年(昭和35年)6月
安保国会で議長席に覆いかぶさるようにして清瀬議長を守り抜く
同年11月
2度目の当選

当時の川島正次郎自民党幹事長が戦前、田辺七六と親しかった関係から、田辺陣営は党本部に広瀬のくら替え阻止を働きかけた。この結果、岸信介首相と川島幹事長は広瀬のくら替え出馬を認めない決定を下した。広瀬陣営は代わりに新人候補を擁立することになり、金丸信に白羽の矢が立った。広瀬参議院議員、天野知事、名取頭取らが一致して金丸に出馬を勧め、金丸も決意を固めた。保守陣営では戦前から親子2代にわたって議席を持つ富士急行社長の堀内一雄、大蔵官僚の内田常雄ら有力候補がひしめき、社会党からは元副知事の金丸徳重ら2人が出る激戦であった。

出馬に当たって広瀬は金丸に佐藤派入りを勧めた。「佐藤栄作は将来、必ず宰相になる男だ。選挙をやるなら派閥に入った方がいい」。そう言われて金丸は広瀬とともに佐藤にあいさつに行った。無口で無愛想な佐藤は金丸を顔を見るなり大きな目をむいて「キミはカネがあるか」と聞いた。「今度の選挙ぐらいは自前でやれると思います」と答えたが、佐藤は「その程度か。政治をやる以上は、いくら使っても使い切れないほどあるか、ないなら全くない方がいい。キミのような中途半端は使いものにならない」と取りつくしまもなかった。

金丸は佐藤の態度に腹が立ったが、広瀬のとりなしでもう一度、佐藤に会って頭を下げた。「よろしい。佐藤派で選挙の面倒をみよう」となって佐藤派入りが決まった。選挙戦に入ると佐藤栄作が山梨県に応援に来た。車の中で金丸は佐藤から50万円の陣中見舞いをもらった。当初は2、3カ所という約束だったが、「すぐそこですから」と言って金丸は佐藤を山の奥まで7カ所も引っ張り回した。佐藤は東京に帰る際に「俺をこんなにこき使って何だ」と極めて不機嫌だった。

初出馬のころの金丸信と玲子夫人

初出馬のころの金丸信と玲子夫人

金丸信は無名の新人候補だった。同じ金丸でも元副知事の社会党の金丸徳重の方が県内の知名度ははるかに上だった。そこで陣営は知名度を上げるために「信ちゃんアメ」や金丸の似顔絵入りの「信ちゃんネクタイ」を作って選挙区にばらまいた。こうしたことも効果をあげて金丸は69354票を獲得して43歳の初陣ながらトップ当選を果たした。山梨全県区は定員5名で金丸徳重が2位、堀内一雄が3位、田辺国男が4位、内田常雄が5位という結果だった。

初当選の喜びもつかの間、同年6月24日、玲子夫人が急逝した。この日、上京した夫人は金丸と議員会館の食堂で食事中に「気分が悪い」と訴えて倒れ、そのまま不帰の人となった。急性心不全だった。金丸は「初めての選挙で疲労困ぱいしたんだろうね。心身ともにね。新人の選挙は、それはすさまじいものだからな。男のわたしでも音を上げたくらいだもの。家内はわたしとは別のトラックで県内を走り回っていたんだ」と述べている。

■安保国会、議長かかえて突進

陣笠時代の金丸は1960年(昭和35年)の歴史的な安保国会で存在感を発揮した。6月19日夜、衆議院議長室の周辺は本会議の開会を阻止するため社会党議員や秘書団がピケを張って占拠していた。清瀬一郎議長は午後11時7分、警官隊を導入して社会党議員らの排除を始めた。

安保国会の衆議院本会議強行採決で、清瀬一郎議長(中央)を背後からガードする金丸信(左後ろ)=朝日新聞社提供

安保国会の衆議院本会議強行採決で、清瀬一郎議長(中央)を背後からガードする金丸信(左後ろ)=朝日新聞社提供

自民党議員が議長室に入って清瀬議長を救出し、金丸は高齢の清瀬議長を抱きかかえて本会議場の議長席めがけて突進し、襲いかかる社会党議員を柔道で鍛えた腕前でなぎ倒した。清瀬議長は本会議場に入る際に右足首を扉にぶつけて骨折したが、金丸はおかまいなしに議長席に清瀬を担ぎ上げた。

議長席めがけて突進する社会党議員と議長席を守る自民党議員・衛守の間で大乱闘になったが、金丸は議長席に覆いかぶさるようにして清瀬議長を守り抜いた。午後11時49分、清瀬議長は50日間の会期延長を議決し、延会手続きをとった。清瀬はそのまま議長席に座り続け、20日午前0時5分、本会議再開を宣言して新安保条約を一気に可決した。会期延長の議決は大混乱の中で行われたが、新安保条約の議決は社会党議員が抗議の退場をしたので粛々と行われた。

池田内閣の下で行われた同年11月の総選挙で金丸は2回目の当選を果たした。選挙区では玲子夫人の急逝について「金丸の女遊びを苦にして自殺した」などのデマが飛び交い、資金面でも不安があって当初は金丸も「出馬をとりやめようか」と弱気になっていた。地元で後ろ盾になっていた広瀬も34年の参議院選挙で落選していた。金丸は太平醸造を協和発酵に譲渡し「政治一本で進む」決意を固めて2度目の選挙に臨んだ。

後に金丸は「2回目の選挙は1回目にも増してつらいものだった。もともと山梨というところは1回か2回、当選させれば、あとは落としてしまうような土地柄だ。政争の激しさは妻の死にまでムチ打ち、あらぬうわさも飛び交った。私もどうせ負けるなら出るのをやめようかと思ったほどだ。だが結果はまた最高点という大逆転。この選挙が私の政治生活の天王山だった。玲子の加護があったとしか思えない」と振り返っている。=敬称略

(続く)

主な参考文献
 金丸信著「私の履歴書 立ち技寝技」(88年日本経済新聞社)
 金丸信著「人は城・人は石垣・人は堀」(83年エール出版社)
 「人間金丸信の生涯」刊行記念会編著「人間金丸信の生涯」(09年山梨新報社制作)

※1枚目の写真は「私の履歴書 立ち技寝技」、2枚目の写真は「人間金丸信の生涯」より

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