政客列伝 金丸信(1914~1996)

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 日経電子版(Web刊)では、首相になれなかった、もしくはならなかったものの個性的で存在感あふれた戦前戦後の大物政治家の軌跡を紹介する「政客列伝」を掲載しています。今回のシリーズでは竹下派の全盛時代に「政界のドン」と呼ばれ、時の首相を凌駕(りょうが)する権勢を誇った金丸信氏の生涯を振り返ります。

柔道選手からワイン製造の経営者に 「政界のドン」金丸信(1)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2011/7/31 12:00
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金丸信はぼう洋とした風貌(ふうぼう)と独特の政治的カンで竹下派の全盛時代に「政界のドン」と呼ばれ、時の首相を凌駕(りょうが)する権勢を誇った政治家である。議運・国対族、道路族、郵政族の第一人者として国会や行政に大きな影響力を持ち、小沢一郎と組んで政局を主導したが、晩年は東京佐川急便からの不正献金問題で失脚した。

■「農大に金丸信あり」

金丸は1914年(大正3年)、山梨県中巨摩郡今諏訪村(後の白根町、現在の南アルプス市)に生まれた。金丸家は造り酒屋を営む地主で、父・康三は峡西電鉄(後に山梨交通に合併)の重役も務めていた素封家である。金丸の父も祖父も2代続けて入り婿で、金丸は待望の長男だった。9人兄弟は里見八犬伝にちなんだ名が付けられた。上の姉2人はれい、てい、下はすべて男で順に信、仁、忠、孝、智義。これで8文字すべてを使い果たし、さらに下の弟は敬、修となった。

▼生誕から青年期までの歩み
1914年(大正3年)
山梨県中巨摩郡今諏訪村(後の白根町、現在の南アルプス市)に生まれる
1933年(昭和8年)
東京農大に入学、柔道に明け暮れる
1937年(昭和12年)
通信兵として当時の満州に出征
1941年(昭和16年)
玲子夫人と結婚
1943年(昭和18年)
山梨県酒造組合の常務理事に
1951年(昭和26年)
ワイン製造会社の経営者に
1956年(昭和31年)
昭和天皇がワイン工場をご見学

素封家の長男としておっとり育った金丸少年は体格がよく学業の成績も悪くはなかったが、いわゆる秀才タイプではなく、甲府中学の受験に失敗して身延中学に入学した。身延中は実家から離れていたので寄宿舎に入り、柔道と野球に打ち込んだ。特に柔道は体格に恵まれていたので上達が早く、3年生で初段、4年生で2段となった。また野球部ではキャッチャーとして活躍した。

金丸は身延中を卒業して東京農大に入学してさらに柔道の腕を磨いた。「昭和8年に東京農大に入ってからも、柔道に明け暮れた。講道館や警視庁にも通い、技を磨いた。自分で言うのも何だが、私は本当に強かった。『農大に金丸信あり』と、柔道界ではその名が全国にとどろいていた」と述懐している。後に政治家になって寝業師とも呼ばれたが、「自分の柔道は講道館だから立ち技だけ。寝技はやらなかった」と述べている。

午前中は講義にちょっと顔を出し、午後は柔道の練習、夜は仲間と渋谷界隈(かいわい)を飲み歩く奔放な学生生活を送った。時には羽目をはずして暴力ざたをおこして警察の厄介にもなっている。実家が裕福なので学生時代にカネに困ることはほとんどなかった。

柔道を通して金丸は体育会系特有の濃密な人間関係の中に身を置いて処世術を学んでいった。農大卒業後、金丸は郷里に帰り、韮崎中学の教師になった。担任は博物(生物)と柔道。さらに野球部の指導を受け持った。教師になったのは身延中学の恩師が韮崎中学の校長をしていて誘われたからであり、徴兵までの腰かけであった。

幼少時代の金丸信(後中央)と姉弟

幼少時代の金丸信(後中央)と姉弟

金丸は1937年(昭和12年)応召、通信兵として当時の満州に出征した。所属は関東軍電信三連隊第二中隊。日中戦争が勃発し、満州は最前線ではなかったが、来る日も来る日も湿気の多い塹壕(ざんごう)生活が続いた。頑強なはずの金丸は胸に水がたまる胸膜炎にかかって後方送りとなり、新京の病院に入院した。この病気のおかげで兵役免除、内地送還となり、結果として命拾いをした。兵隊時代について金丸は「私にはいい思い出はひとつもない」と語っている。

内地に帰還した金丸はしばらく静養した後、父親から家業の酒造業の経営を任された。父・康三はバス事業に精魂を傾け、山梨県議にもなって多忙を極めていた。戦時下の酒造業は「酒さえあれば何でも買えたし、つくるそばからいくらでも売れた。水で薄めて金魚が泳げるような酒でも引っ張りだこで、まさに水商売といったところだろう。これは正直に言って実にもうかった」と述べている。

このころ金丸は「せっかく農大を出たのだから」と周囲に勧められて二町歩の松林を開墾して果樹園経営にも乗り出した。兵役免除の負い目もあって開墾の重労働にも率先して取り組み、開墾地に黄桃とブドウを栽培した。昭和16年、両親の勧めで玲子夫人と結婚した。羽振りがよくて遊び癖がついた金丸は結婚しても遊び癖が直らず「とても身を固めるどころではなかった」と述懐している。

東京農大柔道部の金丸信(左)

東京農大柔道部の金丸信(左)

昭和18年には山梨県酒造組合の常務理事になった。このころから戦局が急速に悪化し、物資の不足から県下の造り酒屋を半減する企業整理の方針が打ち出された。金丸はこれに協力するため、率先して廃業を申し出た。先祖伝来の家業をやめたくはなかったが、米不足で国民が困っているのにいまさら酒造りでもあるまいと思い切った。

酒造業を廃業してもブラブラしているわけにはいかない。そこで軍需産業の溶接に使う酸素作りの工場を立ち上げた。「日東工業」という会社を設立し、社長には地元選出の今井新造代議士を担ぎ出した。代議士を社長にしたのは政府から補助と便宜を受けやすかったからである。金丸は終戦までこの会社を切り盛りした。

■ワイン製造を山梨の地場産業に

金丸信は山梨県の青年実業家として1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎えた。何から手をつけていいかわからないほどぼうぜん自失の状態だった。軍需向けの日東工業の仕事は激減した。そこで醸造業に回帰して焼酎をつくる「中央発酵化学工業」という会社を興した。これが大当たりだった。酒がなくてメチルアルコールにまで手を出すような時代だったから焼酎はよく売れた。金丸はハーレー社製の小型自動車を持つほどの身分になった。

昭和天皇を自社ワイン工場にご案内する経営者時代の金丸信

昭和天皇を自社ワイン工場にご案内する経営者時代の金丸信

金丸に転機が訪れたのは昭和26年である。戦前から世話になっていた山梨中央銀行の名取忠彦頭取から「福泉醸造工業」の経営を引き受けるように強く勧められた。福泉は甲府工場で焼酎と山梨産のブドウを使ったワインを製造していた。名取頭取の要請に金丸はためらったが、10億円の融資と引き換えに経営を引き受けた。この時代の10億円は巨額である。

焼酎は造ればすぐ売れたが、ワインは何年も寝かせる必要があるから資本効率が悪い。ワイン製造を山梨の地場産業として育てるにはある程度の資金が必要であった。本格的なワイン製造に乗り出すに当たって金丸は緻密な一面をのぞかせた。欧州産、特にフランスのブドウの品種を徹底的に調べ上げ、山梨県の風土、土壌に合いそうな品種をいくつか選び出し、果樹園農家と委託生産契約を結んだ。工場の設備も一新した。会社名も「太平醸造」に改めた。これが後の山梨産サントネージュワインの工場である。

東京の明治屋と販売契約を結び、大阪、福岡、札幌にも営業所を置いて全国に販路を求めた。こうしてワイン製造は軌道に乗ったが、精魂を傾けて苦労した割には利益は上がらなかった。ワインの需要がまだまだ少ない時代であった。この事業を通じて金丸と名取山梨中央銀行頭取の絆は一段と深まった。昭和31年、昭和天皇が山梨を行幸された際に太平醸造のワイン工場を見学され、金丸は案内役・説明役を務めた。金丸のワインの知識・経験は決して半端ではなかったのである。=敬称略

(続く)

主な参考文献
 金丸信著「私の履歴書 立ち技寝技」(88年日本経済新聞社)
 金丸信著「人は城・人は石垣・人は堀」(83年エール出版社)
 「人間金丸信の生涯」刊行記念会編著「人間金丸信の生涯」(09年山梨新報社制作)

※写真は「人間金丸信の生涯」より

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