政客列伝 松村謙三(1883~1971)

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農相就任、第1次農地改革を主導 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三(4)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/3/25 7:00
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1945年(昭和20年)8月15日、松村謙三は終戦の玉音放送を旧民政党本部の建物で聞いた。政党政治復活、民政党復活を心中期していたが、国家の前途を思うと暗たんたる気持ちだった。鈴木貫太郎内閣が総辞職し、組閣の大命は東久邇宮稔彦王に下った。異例の皇族内閣である。近衛文麿が後見役として無任所国務相で入閣した。練馬の松村の自宅に17日午前1時ころ、迎えの自動車が来た。「東久邇宮殿下の使者ですが、ぜひすぐ来ていただきたい――そういうお召です」。

東久邇宮内閣。3列目左端が松村厚相。最前列が東久邇宮首相、2列目左から重光外相、米内海相、中島商相、近衛国務相(1945年8月17日)=毎日新聞社提供

東久邇宮内閣。3列目左端が松村厚相。最前列が東久邇宮首相、2列目左から重光外相、米内海相、中島商相、近衛国務相(1945年8月17日)=毎日新聞社提供

■東久邇宮内閣に厚相で初入閣

組閣本部になっている赤坂御所に午前2時ごろ着くと、広間に組閣を仕切っている近衛がいた。「これが平生ならば入閣はめでたいとも言える。だが今回の入閣は命をくれというようなものだが、たって貴方の承諾を得たいのだ。そこでいすの問題だが、自分は農林をやっていただくつもりで予定していたところ、事情があって、ひとつ厚生を引き受けてくださらぬか」という要請である。松村は「この国家の難局に直面して命がけの仕事だからどんないすでも異存はありません」と応じた。62歳、未曽有の敗戦のさなかの初入閣だった。

東久邇宮内閣は17日に親任式をあげて発足した。親任式は焼け残った宮内省の一室で行われ、昭和天皇のおやつれになった姿に松村は衝撃を受けた。厚生行政には全く土地勘がなかったので、まず優秀な事務次官を選ぼうとかねて懇意の内務省の古井喜実と町村金五に推薦を求めた。二人とも衛生局長の亀山孝一を推薦したので、亀山次官が決まった。敗戦で何から手をつけていいかわからないほど混乱していた。最も懸念されたのが国民の衛生状態だった。ジフテリアが蔓延していたが、薬品、薬剤がほとんど皆無という状態だった。

ある日、クリスチャンで「貧民街の聖者」として米国でも知名度のある無産運動の長老・賀川豊彦が大臣室を訪ねてきた。「私で何か役に立つことがあれば、何でも喜んでお手伝いします」。松村は「どうか米軍に貴下よりお話し下さって資材・薬品の提供に尽力していただきたい」と頼み込んだ。賀川が快諾して米軍に要請した結果、ジフテリアの対症資材の提供が実現した。

東久邇宮内閣の使命はポツダム宣言に即して陸海軍の武装解除と占領軍の無血進駐を無事に進めることであった。これが予想外にスムーズに実現したので閣内にも「このまま政局を乗り切っていけるのでは」との楽観論が出始めた。その矢先の10月4日、占領軍は治安維持法など治安関係法令の廃止、山崎巌内相、全国の警察部長、特高警察部の全員罷免、政治犯の釈放などを東久邇宮内閣に指令した。東久邇宮は「山崎内相や警察関係者を見殺しにして内閣を継続することはできない」と総辞職を決断した。

後継の首相には戦前、憲政会・民政党内閣で外相を務めた幣原喜重郎が起用された。厚相を退任して肩の荷を降ろしたばかりの松村は幣原に呼び出されて入閣要請を受けた。「農林大臣をやってくれ」。平時なら農政は松村の最も得意な分野であり、二つ返事で引き受けるところだが、敗戦の混乱で深刻な食糧危機に瀕していた。「農林大臣といっても、ご存じのとおり、まず食糧問題――これは難しい。私には乗り切る自信がありません」「そんなことを言わずに曲げて承知してくれたまえ」

松村は幣原に1時間の猶予をもらって農相経験者である親分の町田忠治に電話で相談した後、再び幣原に会って「自信がないので、やはりお断りいたすほかはない」と答えた。幣原は怒りだした。「何だと?自信がない?自信がないのは君ばかりじゃない。こちらだって総理大臣をやりおえるかどうか、そんな自信などありはしないのだ。この時局をどう思うのだ。君とは長年つき合ってきた仲だし、それで頼み込んでいるのに、この難局を前にして何を言うのだ。けしからん!」

■幣原首相の剣幕に押されて農相に

幣原の剣幕に押されて農相を引き受けた。幣原内閣は昭和20年10月9日に発足した。松村農相はまず省内人事に手をつけた。事務次官には民間から河合良成を起用した。河合は松村と同じ富山県福光町出身の幼友達で高岡中学の1年後輩である。東大を出て農商務省に入り、米穀課長の時、米騒動の責任をとって辞任し、その後は東京株式取引所理事になるなど実業界で活躍していた。松村は河合の説得を高岡中学出身の読売新聞社長・正力松太郎に依頼した。河合は次官就任要請を快諾した。

幣原内閣。前列左端が松村農相。同中央が幣原首相、同右端が吉田外相、後列右から3人目が芦田厚相(1945年10月9日)=朝日新聞社提供

幣原内閣。前列左端が松村農相。同中央が幣原首相、同右端が吉田外相、後列右から3人目が芦田厚相(1945年10月9日)=朝日新聞社提供

農政局長には和田博雄を抜てきした。和田は戦時中「アカである」として企画院事件に連座して治安維持法違反容疑で逮捕・起訴され、無罪判決で放免されたばかりであった。農政課長は後に農政の大御所になる東畑四郎である。松村農相の当面する緊急課題は食糧危機乗り切りと農地改革であった。松村は農相に就任すると早速、関東近県の千葉、埼玉、茨城に出かけ、さらに東北各県にまで足を伸ばし、農家に米の供出を要請して歩いた。それでも昭和21年以降の食糧確保のメドは全く立たなかった。

松村農相が途方に暮れていると宮中から呼び出しがあった。昭和天皇は「戦争に塗炭の苦しみをした国民に、食糧事情の悪化でこのうえさらに多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分には耐え難いことである。政府の食糧提供要請に、米国は応諾を与えぬそうであるけれども、当方からは食糧の代償として提供すべき何者もないのだから致し方ない。聞けば皇室の御物の中には、国際的価値のあるものが相当にあるとのことである。よって帝室博物館の館長に命じてその目録を作成させたのがここにある。これを代償として米国に渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい。そのように取りはからうように」と仰せられた。

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