2019年8月26日(月)

日米外交60年の瞬間 第3部

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追放解除にざわめく日本 サンフランシスコへ(37)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

2012/4/28 7:00
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1951年8月の公職追放解除は、自由党、民主党にも党内政局の火種を提供した。とりわけ自由党である。増田甲子七幹事長は「追放解除者の入党を歓迎する」と述べたが、党内のだれもが、建前と受け止めた。

話を混乱させるようだが、それは2012年のいま、民主党と自民党との大連立が難しいのと似ている。選挙区事情である。

■「半年は吉田に任せる」と鳩山

右端が増田甲子七=毎日新聞社提供

右端が増田甲子七=毎日新聞社提供

鳩山一郎をはじめとする追放解除者が復帰するとなれば、その地盤を事実上引き継いでいる戦後派には脅威となる。この種の問題があちこちで起こる。

もっと大きな問題は鳩山の政権欲だった。

鳩山からすれば、吉田茂は自分の追放中にほんの一時的に政権を任せた男である。したがって、すぐにも自分の政権をつくりたいところだが、解除直前に病に倒れる不運に襲われ、吉田からのバトンタッチは少なくとも半年先と考えていたらしい。

サンフランシスコ講和条約の国会承認など、いわば後始末は吉田にやらせようというわけだった。歴史を先読みすれば、実際には半年たっても鳩山に政権は戻らなかった。マグマはたまる。吉田体制の揺らぎの過程は、鳩山の政界復帰に伴って始まっていく。

民主党側の焦点は、東条内閣の閣僚を務め、追放された大麻唯男だった。大麻が民主党に入党するのかどうか。もし入党すれば、大麻は総裁候補として迎えねばならないような大物だった。三木武夫幹事長は、総裁として迎える意思は毛頭ない、と語っていた。

占領が終わり、政治の世界も混乱のなかで安定を求める過程も始まる。それが追放解除である。

混乱とその収束が繰り返すなかで日本政治は、左右社会党の合同、自由、民主党両党のいわゆる保守合同による55年体制に向けてうごいていく。

サンフランシスコ講和条約は、そのような国内政治上の意味も小さくなかった。そして55年体制の確立は、日米関係の中核である安全保障問題に不毛の対立を持ち込む結果にもなるが、それについては、後にこの物語で詳しく触れる。

■「子女を売る単作地帯」と東北不況

講和条約に向けた動きの背景には戦後日本の復興があった。それでも当時の日本は現在の想像を超えるほど貧しかった。1951年8月14日付日経には、驚くべき記事が出ている。見出しは「子女を売る単作地帯」。

それによると、農家経済は朝鮮動乱後黒字に好転しているが、東北地方の単作地帯では農家の窮乏につけ込む人身売買がかえって増加し山形県では昨年の2倍強となり、宮城県でも増加する人身売買を防ぐために対策を練っていた。

山形発の記事によると、山形県内では、もぐりの周旋屋が横行し、人身売買がめっきり増えているという。その95.6%が耕地を手放したり、青田売りの窮乏にあえいだりしている単作地帯の農家の次男、三男や娘たちであり、1934年(昭和9年)に東北地方を襲った冷害・凶作の際の状況と似ているという。

東京などに売られていくが、当時の記事をそのまま引用すれば、「1-2万円程度の前借金(接客婦の場合)のうち1割5分―2割を旅費、周旋手数料としてまきあげられた上、女中とは名のみで特殊喫茶、飲食店の女給として売春行為を強要される。作男や農婦も1日10-11時間の労働を強要され月給は1000円足らずのものが多い」。

仙台発の記事は宮城県青少年問題対策協議会を中心とした調査にもとづく"人身売買白書"を紹介している。こちらは現代の価値観からすれば、字にするのをはばかるような当時の現実を伝えている。例えば、こんな具合だ。

「"金になる働き口がある"と無知な農村の子女を甘言で連れ出し、3年から10年の雇傭契約で、男は農業見習夫、女は特飲街に売りつけ、手数料として1人3千円から1万円をとるほかいろいろの名目で金を取り、前借金(5千円から1万円ぐらい)は親許の手にはほとんど残らない」

1951年
4月11日
トルーマン大統領がマッカーサー元帥を連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米極東軍・極東陸軍総司令官から解職。後任にリッジウェー中将
4月16日ダレス特使再来日
6月20日日本政府、第1次追放解除を発表
8月6日日本政府、第2次解除を発表。鳩山一郎ら追放解除される
9月1日米、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋安保条約に調印
9月4日サンフランシスコ講和会議始まる
9月8日吉田首相、対日講和条約、日米安全保障条約に調印
12月24日吉田首相、ダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)

「本年1月10年間の契約で農家に売られた少年(11歳)の場合をみると、朝5時から日没まで大人以上に野良仕事に酷使され、夜は納屋に寝るという農奴的生活で小遣いはほとんど与えられず義務教育も受けず、身体はすっかりやせ衰えていたという。また特飲街に売られた女達は玉代の6分を店主に取られ、さらに残りの収入からも食費、前借金などを引かれるので、手取りは1カ月2千円前後、病気にでもかかると治療費で身動きもとれないという」

東北の苦しみをどう癒やすかは、2012年のいまも大きな政治課題である。2011年3月11日の東日本大震災の痛みはあまりに大きく、しかも原発危機には出口が見えない。

東北の疲弊はしばしば政治を動かしてきた。昭和9年の冷害による東北の疲弊は、1936年(昭和11年)に起きたクーデター未遂事件である2.26事件の遠因といわれた。

それに似た状況が戦後6年を経た1951年の日本にもあった。放置すれば社会の危機を招く。一方で工業地帯では朝鮮特需があり、その終わりを心配していた。

日本はそんな経済状況のなかで講和を待ったのである。

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