筋肉を作る「スポーツ遺伝子」、トレーニングに生かす
遺伝子ビジネス最前線(上)
「究極の個人情報」といわれる遺伝子。両親から受け継いだ体質が書き込まれ、個人の健康状態や病気の予測にも使えることがわかってきた。これをスポーツや医療分野で活用しようという動きが広がっている。スポーツ選手の適性に合わせたトレーニングによって成果を高めたり、医療の現場では一人ひとりに最適な治療法を提供する「オーダーメード医療」の拡大が見込まれている。IT(情報技術)を駆使した高度な分析装置の開発競争も激化。個人情報の保護や倫理面でのルールの確立は欠かせないが、低コストで遺伝子情報を知り、それを上手に使いこなせば、個人の能力をフルに生かしたり、将来病気になるリスクを減らして生活の質を高めることができるかもしれない。
「スポーツ遺伝子」に研究者が注目
「我が子をプロスポーツ選手に」と期待をかける親たちの教育熱が高まり、子ども向けスポーツビジネスが成長を続けている。先天的にどの競技種目に向いているかや、どこまで成績を伸ばせるかといったことが分かったら――。多額の費用を投資する親たちにとって、子供の運動能力や適性はとても気になる情報だ。

「人の顔が一人ひとり違うように、(運動能力に影響する)『速筋』を作れるかどうかは両親からどのような遺伝子をもらうかで決まる」。こう断言するのは、日本体育大学の総合スポーツ科学研究推進センターの黄仁官主任だ。黄主任自身はかつて韓国を代表する走り幅跳びの選手で、現在は日本体育大学で全国トップクラスの駅伝部などで監督と協力し、トレーニング方法を指導している。
黄主任をはじめ、スポーツ科学分野の研究者が注目しているのが「ACTN3」とよばれる遺伝子だ。黄主任は陸上選手としての自身の経験や駅伝部の選手と接するなかで、「同じトレーニングをしても選手によって結果が違うのはなぜか」という疑問を抱き、遺伝子に着目した。
遺伝子の塩基配列を解析すれば、髪や目の色、病気のかかりやすさなどの個人の「体質」を読み取れることができる。父と母からから受け継ぐ遺伝子情報の核となる染色体は、2本のひもがらせん状につながる構造で塩基とよばれる物質で橋渡しされている。塩基物質は、「A(アデニン)」「G(グアニン)」など4種類。その塩基物質の並び方が「遺伝子情報」であり、個人の体質を決める要素となる。
スポーツで注目されている「ACTN3」遺伝子は筋肉構造の特徴を決めると言われている。研究は2003年にさかのぼる。「ACTN3」は、速筋の働きが安定する「R」と、持久的な体の働きが強くなる「X」の2種類の遺伝子で構成される。父母からそれぞれの遺伝子を受け継ぐため、その組み合わせは大きく「RR」(パワー・スプリント系)、「XX」(持久力系)、「RX」(パワー・スプリント/持久力系)という3つのタイプに分類できる。

シドニー大学などは2000年代前半、オーストラリアで50人のオリンピック選手を含む300人以上のトップアスリートを対象に「ACTN3」を調査。スピードスケートや短距離水泳種目の選手に「XXタイプ」が一人もいないことを解明した。さらにスポーツ競技を瞬発力が求められる競技と持久力が重要になる競技に分類して調べたところ、高い持久力を求められる競技の順に、「XXタイプ」の割合が高くなることが分かった。
黄主任は日体大で学ぶ競泳や水球、レスリングのトップ選手を対象に遺伝子検査を実施。背筋力や立ち幅跳びなどといった瞬発力が求められる測定項目で「RRタイプ」の選手が多いことを検証し、この3月の学会で発表した。
サンプル数でいえば、オリンピック選手はまだ一握りに過ぎず、統計学的には少ないとの指摘もあるが、「RR遺伝子を持つ選手が特定の競技に強いという関係は明らかになりつつある。将来は人材発掘やトレーニング方法に遺伝子結果を生かすことができるのではないか」(黄氏)と期待を寄せる。
「各選手の持つ遺伝子に注目」
「選手の『個性』に着目して、トレーニングの方法を変えている」と話すのは、福島大陸上部の川本和久監督。2008年に開催された北京五輪の女子400メートルリレーでバトンをつないだ4選手がすべて教え子だったという、日本の陸上女子短距離指導の第一人者だ。
北京五輪の女子400メートルリレーは、日本記録に近いタイムを出しながら、予選で敗退。「教え子を五輪に」という夢は達成したものの、「世界のトップは遠い」と痛感したという。オーストラリアでの遺伝子研究の成果を知り、選手が生まれながら持つ適性を踏まえたトレーニングを取り入れることにした。バイオベンチャーのG&Gサイエンス(福島市)と共同でアスリートが持つ遺伝子の特徴などの研究を進めている。
例えば400メートルリレーの日本記録保持者の一員である渡辺真弓選手。検査結果から「RRタイプ」(パワー・スプリント系)を持つことが分かった。これを受けて、渡辺選手のトレーニングには、生まれつき瞬発力が強いといわれる遺伝子を最大限に生かすため、70メートルなどの短距離走を集中的に組み込むようにした。400メートル走の記録保持者である千葉麻美選手の遺伝子は「XXタイプ」(持久系)と判明。これまでスピード系と持久力系のトレーニングを同じ程度こなしていたが、弱みを補うためにスピード系を強化するトレーニングを増やし、記録を高めたという。
川本監督は「それまでの短距離指導は、遅い選手は速い選手のフォームなどをまねることが基本だった」と振り返る。「長距離を走らせてばててしまう選手を、『根性がないやつだ』と思い込んでいたが、遺伝子が原因だったことに気が付いた」という。さらに6人の卒業生と福島大学陸上部に所属する60人に遺伝子検査を実施。個人が持つ遺伝子に合わせたトレーニングを取り入れる予定だ。
スポーツ分野での遺伝子検査の実績に注目して、スポーツスタイル(千葉県船橋市)は、オーストラリアの遺伝子検査会社、ジェネティックテクノロジーズと提携。「ACTN3」の検査サービスを日本国内で手がけている。サンプル回収キットの綿棒で頬の内側をこすり粘膜を採取して送ると、2週間ほどで自分のACTNがどのタイプかを診断してくれる。

スポーツスタイルの佐藤信幸社長によれば、日本人は「RX」タイプが6割。より精度を高めるために、今年から新たに呼吸器系や、運動時のエネルギー効率の高さを判定する「UCP2」「ACE」といった遺伝子の判定もするようになった。これに「ACTN3」の結果を掛け合わせると、検査の対象者を27種類に分類できる。遺伝子検査の料金は1万3500円。検査結果をもとに、トップアスリートからトレーニング方法などのアドバイスを受けられるサービスも含まれるという。
同社のこれまでの検査実績は約1万件。子どもをプロ選手にしたいと考えている親のほか、アスリートとしての進路を迷っている大学生や、大学の研究機関からの需要が多いという。
バルセロナ五輪女子マラソン4位の実績を持ち、第一生命女子陸上競技部を率いる山下佐知子監督も同社の遺伝子検査を活用している。
「マラソンも今はスピードの時代。持久力タイプの選手に、短距離など瞬発力が要るトレーニングをさせる動機づけに活用している」と話す。「これまでは『この選手は持久力が足りないから、こういうトレーニングを』というように、感覚に頼った指導をしてきた。遺伝子検査の結果を踏まえれば、自分の指導の裏付けになり自信につながる」という。
競輪競技の世界にも遺伝子情報の活用が広がる。北陸大学自転車競技部監督で、現役の競輪選手でもある辻力氏は教え子の一部に遺伝子検査をさせている。「自分の長所短所を知ることで、『やらされ感が強い』トレーニングメニューを率先してこなすようになった」という。中距離を専門としていたある選手は、遺伝子検査で「RRタイプ」と判明。本人の意向もあり短距離に転向した。「地方大会で何とか上位に入っていたが、(種目を変更した)2010年冬の国体で入賞できた」と満足げだ。
ただ、遺伝子情報の取り扱いには細心の注意が必要だ。日体大の黄氏は「倫理的にクリアしなければならない点が多い」と指摘する。例えば遺伝子検査の結果を偏重してしまうと早くから子供の進路を決めてしまったり、得手不得手を決めつけてしまう恐れがあるからだ。
現時点では、遺伝子検査の結果を基にした個人の体質や能力の推定は、あくまでも限られたサンプル数をベースにしている。また統計学の世界では、遺伝子は研究対象として新しい分野。検査でわかるのは、あくまで個人の生まれつきの体質や筋肉の特徴にすぎず、競技の好き嫌いや練習の効果などは加味されていない。個人情報の保護など法整備のほか、監督やトレーナーなどが遺伝子分析についての理解を深め、検査結果に振り回されないような使い方を学ぶ必要がある。
(電子報道部 杉原 梓)