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中江有里さん 現実世界が変わって見える2冊の本

変わりどきは、読書どき(5)

わたしの仕事は定期的なものと、そうでないもののふたつがあります。その割合は時により変化しますが、現在は定期的な仕事のほうが多い状態。つまり毎月、毎週同じところで仕事をする。テレビ出演やこの連載もその一環です。不安定な業界では、レギュラーの仕事はありがたいものです。逆に突発的、一回限りの仕事も、良い緊張をもたらします。わたしにとって、この安定と不安定のバランスが仕事の醍醐味のような気がします。

さて世の中には、ルーティンの仕事、つまり繰り返す仕事があります。毎日同じ職場で、同じ顔ぶれに囲まれ、専門的な仕事をする。仕事の中身は変わるでしょうが、環境そのものは変わらない。変わらない仕事もいいけど、刺激も欲しい、という方に読んでもらいたい本を紹介します。

岩城けい著『さようなら、オレンジ』(筑摩書房 1365円)

2013年の太宰治賞を受賞した作品。主人公はアフリカからオーストラリアに流れ着いたサリマ。共にやってきた夫とスーパーの精肉作業につきますが、ある日夫は失踪。残されたふたりの息子を育てるためにサリマは必死に働きます。物語冒頭のサリマの描写が息を呑むほどすばらしい。サリマの日常、心情が生々しく迫ってきます。

母国では満足に教育を受けることもできなかったサリマは、仕事の傍ら英語教室に通うようになります。その教室で日本人の夫についてオーストラリアにやってきた妻「ハリネズミ」に出会いました。夫に養われて勉強する「ハリネズミ」と、ほぼ文盲のサリマ。教室では何かとすれ違う二人ですが「ハリネズミ」がサリマの職場であるスーパーに仕事を求めてやってきたことから、交流が始まります。

生まれも育ちも違う二人に共通するのは言葉に不自由であること。それぞれの母国から外国へとやってきて、言葉の壁にぶつかりながら、言葉を獲得していく過程は感動的です。

本書はほぼ日本語で綴られており(サリマの思いもハリネズミの英文の手紙も)それゆえにサリマとハリネズミの母国を忘れてしまいそうになる。しかし二人のバックボーンをあらためて思い返すと、英語教室、そしてスーパーの作業場という限られた場所が、どこまでも広い世界だと思えてくるのです。

もう一冊は橋本治著『初夏の色』(新潮社 1470円)

6篇の短編小説が収められており、東日本の震災が関わっています。橋本治さんは多岐にわたる分野のエッセイを出しており、古典の現代語訳なども面白いのですが、小説はすごい。橋本治さんの小説は、似たような小説がない。実に淡々として、人間の本質のようなものをあぶりだします。

「枝豆」という作品は、大学生の敦士が主人公。敦士は「草食系男子」の実態を調べている心理学研究室の蓑浦のもとを訪ねます。友人から「お前、草食系だろ? 行ってやれよ」と言われてやってきた敦士は、調査に協力するために様々なアンケートに答えます。

設問に対して4つの答えが並んでいるけど、どれが自分の心に最も近いかと考える敦士。一番近い答えも微妙に違っているけど、とりあえずは答える。深く考えもせず研究室にやってきたけど、自分が草食系と呼ばれたのは一回きりで、自分でも草食系かどうかわかっていない。

「草食系男子」という言葉から、「自分とは何者?」と心を掻き回されて不快な思い陥る敦士の気持ちが伝わります。途中小説の視点は蓑浦のものとなり、「草食系男子」とジャンル分けされることを嫌がる敦士を「動揺させてやろう」と敦士の自尊心を揺さぶろうとする。研究室の中で本質的に噛み合わないやりとりがなされ、読むうちに敦士側についてみたり、蓑浦側にいたりと、ギクシャクとした緊張感に包まれました。タイトルの「枝豆」とは敦士が自分を例えた言葉。

「今はまだ莢の中に入ってるけど、その内にポロっと出て来るんじゃないかな」と自らを「枝豆系男子」と称します。「枝豆系」という言葉、響きも可愛い。そのうち流行るんじゃないかと秘かに思っています。

非日常が日常に変わり、日常が非日常のごとく感じる。小説の中で疑似体験すると、本を閉じたあとの現実世界も、本を読む前と少し違って見えるかもしれません。

中江有里
1973年大阪生まれ。1989年芸能界デビュー。 2002年「納豆ウドン」で第23回BKラジオドラマ脚本懸賞最高賞受賞。 NHK-BS「週刊ブックレビュー」で長年、司会を務めた。 近著に小説「ティンホイッスル」(角川書店)。 現在、NHK「ひるまえほっと」「中江有里のブックレビュー」に出演、 関西テレビ「スーパーニュースアンカー」、フジテレビ系「とくダネ!」にコメンテーターとして出演中。新聞や雑誌に読書エッセイを連載中。
[nikkei WOMAN Online2013年11月1日付記事を基に再構成]

さようなら、オレンジ (単行本)

著者:岩城けい
出版:筑摩書房
価格:1,365円(税込み)

初夏の色

著者:橋本 治
出版:新潮社
価格:1,470円(税込み)

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