政客列伝 松村謙三(1883~1971)

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日中関係冬の時代にパイプつなぐ 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三(8)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/4/22 7:00
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1964年(昭和39年)7月の自民党総裁選で池田勇人首相は佐藤栄作、藤山愛一郎の挑戦を退けて総裁3選を果たした。僅差の勝利に池田陣営は肝を冷やしたが、松村謙三は当選祝賀会で「一輪咲いても花は花」という言葉を贈って池田を激励した。池田首相と緊密な連携をとって積み上げ方式による日中関係の改善を進めてきた松村にとって同年10月の池田首相の病気退陣は大きな痛手だった。

池田首相の後継、藤山一本化に動く

後継選びは川島正次郎副総裁と三木武夫幹事長の調整に委ねられ、佐藤、河野一郎、藤山の3人が名乗りを上げた。直前の総裁選で池田に肉薄した佐藤が有力視された。松村は佐藤政権の出現で日中関係が悪化することを懸念した。松村は河野と親しかったが、河野は党内に敵が多く、佐藤政権を阻止するには河野・藤山連合を形成し、候補者を藤山に一本化する必要があった。松村は河野・藤山連合を促し、河野に出馬を辞退するよう説得するなど水面下で動いた。

日中覚書貿易交渉を終え帰国した古井喜実、田川誠一らを出迎える松村謙三(右下、昭和43年3月、羽田空港)=朝日新聞社提供

日中覚書貿易交渉を終え帰国した古井喜実、田川誠一らを出迎える松村謙三(右下、昭和43年3月、羽田空港)=朝日新聞社提供

池田首相も病床に三木幹事長、大平正芳副幹事長を招き「藤山ということも考えてみてくれ」との意向を伝えた。池田の側近・前尾繁三郎は河野と親しい船田中衆議院議長と会談し、河野が候補者を辞退するよう説得を依頼した。前尾の要請を受けて灘尾弘吉や水田三喜男も河野説得に動いた。こうした説得に河野も一時は出馬辞退に傾いたが、川島副総裁が流す「河野有利説」に幻惑されて結局、出馬辞退をしなかった。

松村の改進党以来の盟友・三木幹事長も一時は藤山一本化に乗り気を見せたが、最後は川島とともに「党内の大勢は佐藤支持である」と池田首相に報告し、これを受けて池田は佐藤を後継総裁に指名した。三木が佐藤を支持したのは、佐藤・三木の共通の親戚である安西浩東京ガス社長を通じて佐藤陣営から活発な働きかけがあったためとみられた。

藤山一本化工作の背後には池田・前尾と松村の深い信頼関係があった。これを裏切る形になった三木の態度に松村は強い不満を示し、絶縁状を突きつけて古井喜実、竹山祐太郎、笹山茂太郎、川崎秀二、佐伯宗義とともに三木派を脱退し、松村派として独自の活動をとるようになった。

1964年(昭和39年)11月
池田首相の後継選びで藤山愛一郎一本化に動く
同年
古井喜実らとともに三木派から離脱
1966年(昭和41年)5月
第4次訪中、周首相らと会談
1968年(昭和43年)
1年ごとの日中覚書貿易始まる
1969年(昭和44年)9月
政界引退を表明
1970年(昭和45年)3月
第5次訪中、藤山を周首相に紹介
1971年(昭和46年)8月21日
死去、88歳。

昭和40年7月、河野一郎が急死し、河野派は重政・森派と中曽根派に分裂した。松村の側近・田川誠一は河野の甥(おい)という関係から河野派に属していたが、河野が死去したので、松村派に入ろうとした。松村は「私の方はいいから、中曽根君を助けてやってくれ」と諭し、田川は中曽根派に属することになった。松村は改進党時代から中曽根に目をかけてきた。中曽根も「私は松村先生の弟子」と公言していた。

佐藤内閣の発足とともに日中関係は悪化した。昭和40年2月、佐藤内閣は輸銀融資の対中使用を中止するとした「吉田書簡」の堅持を表明し、対中プラント輸出計画は相次いで中止に追い込まれた。彭真北京市長の入国拒否など人的交流も厳しく制限した。沖縄返還を最優先目標に掲げた佐藤政権は日米安保体制の強化、韓国・台湾との連携に力を入れ、日中関係改善は二の次になった。

日中関係に強い危機感を抱いた松村は1966年(昭和41年)5月、第4次訪中に出発した。同行者は竹山祐太郎と外交官出身の松本俊一の2人だけだった。LT貿易は昭和42年の期限切れが迫っていた。北京で周恩来首相、陳毅外相と会談し、LT貿易の維持継続で原則的に合意した。

文革で冷え込む日中関係

自民党内右派から「松村は容共主義者」と攻撃されたが、松村はひるまなかった。このころになると中国側にも対日関係を阻害する大きな要因が出てきた。文化大革命である。中国要人が紅衛兵に「資本主義の手先」と糾弾され、相次いで失脚した。廖承志ら対日関係当局者も姿を見せなくなった。日本の対中世論も文革で冷却化した。日中関係は再び冬の時代に入った。LT貿易は昭和43年から1年ごとに期限を更新するMT(覚書貿易)協定となり、松村―周恩来の信頼関係を頼りに細々とパイプをつないでいくことになった。

昭和41年12月の自民党総裁選では佐藤首相の対抗馬として藤山愛一郎が出馬した。松村と藤山はすでに日中関係改善で同志的な関係にあった。松村は藤山陣営の実質的な選対本部長の役割を担った。藤山派、松村派、中曽根派が藤山を支持し、赤城宗徳、石田博英、宇都宮徳馬も藤山陣営に加わった。藤山と松村は池田派を継承した前尾繁三郎にも協力を求めた。前尾派は藤山陣営には加わらなかったが、自主投票の態度を決定した。総裁選では佐藤首相が圧勝し、藤山は89票にとどまったが、前尾47票、灘尾11票など佐藤批判票は合計169票に達した。

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