2019年8月21日(水)

日米外交60年の瞬間 第3部

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初代駐日大使は誰か サンフランシスコへ(32)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

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2012/3/24 7:00
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1951年8月2日(米東部時間)に共同通信ワシントン支局が日米関係に関する米側の重要人事を報じた。それはサンフランシスコ講和会議への日本側全権団の顔ぶれが固まったのとほぼ同じタイミングだった。

初代駐日大使にダレス氏、というニュースである。全文次の通りの短い原稿だった。

■「ダレス駐日大使」の報道

ダレス米国務長官顧問(1952年4月)=AP

ダレス米国務長官顧問(1952年4月)=AP

「ダレス米国務長官顧問の側近筋が2日もらしたところによると、講和条約発効後の重大時期に日本に援助を与える米国の初代駐日大使には結局ダレス氏自身が就任する可能性が最も強いといわれる」

断定は避けているが、思わせぶりな記事である。この物語でも触れてきたように、ダレスは対日講和条約をめぐる交渉にかかわって日本の要人たちと親しくなった。交渉は達成感のある仕事だったとも語っている。だから初代大使に、との空気は当然あったのだろう。

前回書いたように人事とは政治そのものだから、記者たちは取材に血まなこになる。駐日大使人事は、いまでも、日本のメディアのワシントン支局長にとって、他社に抜かれてはならない取材テーマである。

オバマ政権の駐日大使にジョン・ルース氏と抜いたのは朝日新聞であり、ブッシュ政権が議会の大物だったハワード・ベーカー氏を起用するとスクープしたのは日経だった。だが1951年当時は、それほど過熱した取材合戦はなかった。

例えば日経が米国に最初の常駐記者を置いたのは、日本が独立を回復する1952年4月28日の直前だった。初代ニューヨーク特派員の武山泰雄記者の赴任は3月19日だった。

ワシントン特派員はいなかった。日経がワシントン支局を設置したのは1963年12月であり、直前の11月にはケネディ大統領の暗殺事件が起きている。

1951年
4月11日
トルーマン大統領がマッカーサー元帥を連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米極東軍・極東陸軍総司令官から解職。後任にリッジウェー中将
4月16日ダレス特使再来日
6月20日日本政府、第1次追放解除を発表
8月6日日本政府、第2次解除を発表。鳩山一郎ら追放解除される
9月1日米、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋安保条約に調印
9月4日サンフランシスコ講和会議始まる
9月8日吉田首相、対日講和条約、日米安全保障条約に調印
12月24日吉田首相、ダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)

日経ワシントン支局設置は結果的には遅かったが、51年8月時点でワシントンに記者がいないのは、それほど不自然ではなかった。日本はまだ独立していなかったから、大使館もなかった。

米国務省が日本政府のワシントン事務所が8月中に開設されると発表したのは8月4日だった。いうまでもなく講和をにらんでの動きである。

取材合戦に話を戻す。

ワシントンに記者がいないのだから、少なくとも日経は、初代駐日大使の人選をめぐる取材に加わりようがなかった。その後に起きた事実を知っている現在からみた結果論でしかないが、それはさして深刻な話ではなかった。

「ダレス初代大使」は実現しなかったからだ。

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