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犬養健と芦田民主党結成に動く

「いぶし銀の調整役」保利茂(2)

政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

1945年(昭和20年)8月の終戦時に、保利茂は翼賛政治会から改組した大日本政治会所属の衆議院議員であった。終戦後、政党復活に真っ先に動いたのは戦時中に軍部への非協力を貫いた旧政友会の鳩山一郎だった。保利は鳩山の自由党結成の動きを見て、鳩山を訪ねて入党を申し込んだ。鳩山とは記者時代に面識があり、鳩山も「君がやってくれるなら佐賀県は安心だ」と喜んだ。

進歩党時代の保利茂(後列中央)

ところが、親分の山崎達之輔に自由党入党の了解を得ようとしたら「鳩山のところだけはこらえてくれんか」と難色を示された。鳩山と山崎は戦前の政友会時代から深い対立関係にあった。困惑した保利は当時、幣原喜重郎内閣で外務政務次官をしていた犬養健に相談した。犬養は犬養毅の息子で戦前は政友会に属し、保利は記者時代から親しかった。犬養健から「実は自分も鳩山と関係が良くないから、自由党には行けない。2人で一緒に進歩党に行こう」と誘われ、保利は一転、進歩党入党を決意した。

進歩党若手議員を集めて「新進会」

鳩山と犬養の不仲の理由について保利は「2人の間に私的な、何かトラブルがあり、そのトラブルたるや、なかなか越えがたい不信感を双方に植えつけていたらしい」と述べている。進歩党には大日本政治会の大半の議員が参加した。戦前の旧民政党と旧政友会中島・前田派などの議員である。総裁にはかつて民政党総裁だった町田忠治、幹事長には後藤新平の娘婿の鶴見祐輔、犬養は総務会長に迎えられた。進歩党は昭和20年11月16日に結党式を挙げた。参加議員は274人。

▼終戦直後の足どり
1946年(昭和21年)4月
戦後第1回の総選挙で進歩党から2回目の当選。若手議員による「新進会」結成
1947年(昭和22年)2月
第1次吉田内閣の商工政務次官に
同年3月
民主党結成、犬養や楢橋らと主導権を握る
同年4月
新憲法施行に伴う総選挙。公示後に公職追放
1948年(昭和23年)5月
公職追放が解除。非議員ながら民主党の筆頭副幹事長として政界復帰

ところが、翌年1月の公職追放令で進歩党は町田総裁、鶴見幹事長以下260人の議員が追放になった。生き残ったのは斎藤隆夫、犬養、保利ら10人余りである。保利は昭和19年の補欠選挙に翼賛政治会推薦で当選したが、昭和17年の翼賛選挙の推薦候補とは同列には見なされず、追放を免れた。昭和21年4月の戦後第1回の総選挙で保利は2回目の当選を飾った。鳩山の自由党が141議席で第1党に、党首不在の進歩党が94議席で第2党、片山哲の社会党が93議席で第3党になった。鳩山はGHQに忌避されて組閣直前に公職追放となり、自由党は幣原内閣の外相だった吉田茂を総裁に担いだ。進歩党は幣原を総裁に迎え入れ、吉田自由党は幣原進歩党と連立を組んで第1次内閣を発足させた。

保利は2年生代議士だったが、公職追放でベテラン議員がほとんどいない進歩党内では幹部だった。幣原総裁は戦前の憲政会―民政党内閣で外相を務め、親英米の「幣原外交」の実績でGHQの信頼は厚かったが、高齢でいかにも古色蒼然(そうぜん)としており、周囲には旧民政党色の強い議員が集まった。これに対して犬養と保利は若手議員を結集して戦前の政党色を払拭し、清新はつらつとした政党をめざして「新進会」を結成した。椎熊三郎、川崎秀二、小坂善太郎、坪川信三、橘直治、寺島隆太郎、山下春江ら40人前後の勢力を擁していた。これに対抗して幣原派は「太陽会」を結成した。

選挙運動中に公職追放

進歩党の犬養、楢橋渡、地崎宇三郎(2代目)、石黒武重、保利ら反幣原派の幹部は新憲法をめぐる帝国議会の審議がヤマを越した昭和21年秋ごろから自由党の芦田均と接触し、芦田を担いで新党結成に動き出した。芦田は自由党の創設に深くかかわったが、幣原内閣に入閣したことで鳩山と不仲になり、吉田ともソリが合わずに自由党内で孤立していた。GHQは芦田を高く評価していた。保利は芦田や芦田のスポンサーである鉄道工業社長の菅原通済と会って決起を促した。芦田も大いに乗り気だった。

犬養健=毎日新聞社提供

総選挙を間近に控えた1947年(昭和22年)3月31日、京橋公会堂で民主党が結成された。同日付で進歩党は解党し、同党所属議員114人に芦田ら自由党脱党組、国協党脱党組などを加えて145人が参加して選挙前に第1党になった。幣原総裁を最高顧問に棚上げし、総裁には芦田を据えようとしたが、幣原一派や斎藤らが反対したため、最高委員制をとり、斎藤、芦田、一松定吉、河合良成、木村小左衛門、犬養、楢橋の7人が最高委員になった。幹事長は石黒。民主党の主導権を握ったのは芦田、犬養、楢橋らであった。

これに先立ち保利は同年2月、第1次吉田内閣の商工政務次官になった。この直後に自由党の黒幕といわれた辻嘉六が人を介して会いたいと言ってきた。保利が辻の家を訪ねると「政務次官おめでとう。ところで新党結成の動きがあるのか」と聞いてきた。保利が「一生懸命やってます」と答えると辻は「よほど決心がいるよ。にらまれているから気をつけろ。吉田の方でいろいろ準備をしているようだ」と言った。これは忠告であり、脅しでもあった。この話を犬養に報告すると「私が仮に追放されても、それはボクの私事じゃないか。新党結成は天下の公事だ」と意気軒高だった。

新憲法施行に伴う総選挙は同年4月7日に公示された。保利は最初の選挙が佐賀県第2区の補欠選挙で無競争当選、2回目の選挙は佐賀全県区で最下位当選だった。今度の選挙では「佐賀から政務次官が出た」ということで第一声から保利陣営は盛り上がっていた。保利も今度こそ上位当選を果たして選挙後は芦田民主党政権をつくる意気込みに燃えていた。4月10日、秘書の耳打ちに保利はがくぜんとした。「先生、聞き間違いかも知れませんが、正午のラジオで追放と言いよりましたが」「だれがな」「いや先生が」「それは間違いじゃろ。そんなはずはない」。

民主党副幹事長に復帰した保利茂(前列右端)。前列左から3人目が芦田民主党総裁(首相)、1人おいて片山社会党委員長

保利にとってはまさかの公職追放である。昭和21年の選挙でも、商工政務次官に就任した際も公職追放令には該当しない旨の確認書をもらっていた。それが辻の予言通りに芦田擁立の新党結成に動いた犬養、楢橋、地崎、石黒が次々に追放となり、ついに保利まで追放になった。保利は「これはY項パージだ」と憤激した。追放令にはA項からG項までの該当項目があり、それ以外の吉田首相による謀略的な追放を当時「Y項パージ」と呼んでいた。保利は立候補資格を失い、選挙戦から撤退した。

犬養、保利ら幹部の追放は民主党にとって大打撃となり、選挙結果は社会党が143議席で第1党になり、自由党が131議席、民主党は124議席で第3党にとどまった。選挙後、民主党は芦田を総裁とし、社会党、国協党とともに片山3党連立内閣に加わった。片山内閣が提出した石炭国家管理法案をめぐり、これに強く反対した民主党幣原派24人は脱党して「同志クラブ」を結成し、その後、吉田自由党に合流して「民主自由党」となった。片山内閣は社会党の内紛で総辞職し、1948年(昭和23年)3月、芦田民主党総裁を首相とする3党連立内閣が発足した。

民主党副幹事長として復帰

公職追放中の保利はこうした政局の激動をただ見守るほかになかった。せっかくできた芦田内閣で何の働きもできないことに焦燥感が募るばかりであった。芦田首相はGHQとの太いパイプを生かして犬養らの公職追放解除に動いた。昭和23年5月10日、長崎に滞在中の保利に民主党代議士・川崎から電報が届いた。「ツイホウカイジョ オメデトウ」。保利は後に「まる13カ月の苦しみ、このときのうれしさは経験者でなければわからないと思う。私の半生のなかで、この日の喜び以上の喜びを味わったことはない」と記している。

追放解除となった保利はさっそく芦田首相のもとにあいさつに出向いた。芦田は「保利君、待ちかねていたよ。ひとつ党の筆頭副幹事長を引き受けてくれないか。苫米地(義三)君が一人二役を受け持っているが、なにしろ激務だ。形のうえでは苫米地君が幹事長だが、実質は君が党を取り仕切ってくれないか」と話した。芦田内閣では官房長官の苫米地が民主党の幹事長を兼務していた。保利は「やりましょう」と快諾した。こうして保利は非議員ながら与党・民主党の大幹部として政界に復帰した。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 保利茂著「戦後政治の覚書」(75年毎日新聞社)
 岸本弘一著「一誠の道」(81年毎日新聞社)
 保利茂伝刊行委員会編「追想 保利茂」(85年保利茂伝刊行委員会)

※1、3枚目の写真は「一誠の道―保利茂写真譜」(80年保利茂伝刊行委員会)より

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