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羽生結弦、空前のフィギュアブームの申し子

世界で最もフィギュアスケートの人気がある国は現在、間違いなく日本だろう。米国では「熱狂的で、日本選手を全メディアが追いかける。日本で最も人気のあるスポーツ」と紹介されていた。空前のフィギュアブームの恩恵を受け、才能を伸ばしていったのが19歳の金メダリスト、羽生結弦(ANA)といえる。

トップ選手ら世界中から続々と

フィギュアの日本の金メダリスト2人は、ともに仙台市のリンクが生んだ。幼少時代から仙台で過ごした荒川静香が2006年トリノ五輪で金メダルを獲得したとき、仙台生まれの羽生は11歳で小学5年生。ジュニアの下のカテゴリー、ノービス選手にすぎなかった。

トリノ五輪シーズンは、五輪出場資格のない浅田真央(中京大)が15歳でグランプリ(GP)ファイナルを制し、世界のフィギュア界に旋風を巻き起こした年でもある。相乗効果でトリノ五輪後、日本にブームが到来した。

本場である米国の人気は下がる一方、アイスショーが次々と打ち切られたころだった。6月から9月まで毎月、ショーのある日本に、トップクラスの選手が世界中から続々とやってきた。

全種目のトップ演技見るチャンス

恐らく現在、日本ほど全種目のトップ演技を見るチャンスがある国はないだろう。羽生が憧れたエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)、トリノ五輪男子銀メダリストのステファン・ランビエル(スイス)をはじめ、アイスダンスやペアの世界トップ選手、羽生のソチ五輪ショートプログラム(SP)を振り付けたトリノ五輪銅メダリストのジェフリー・バトル(カナダ)、エキシビションを振り付けたカート・ブラウニング(カナダ)ら往年の名選手まで共演している。

日本には荒川がいて高橋大輔(関大大学院)、小塚崇彦(トヨタ自動車)、織田信成、浅田、安藤美姫という現役の世界トップクラスもいた。

ショーにはジュニア選手も招待されることがある。日本スケート連盟も場に慣れさせるため、そういう機会を作ってきた。仙台は地理的にショーが多い首都圏、名古屋近郊から離れてはいるが、羽生は常連選手。ジャンプとスピンの切れ、ノリの良さは中学生には見えず、「Change(MONKEY MAJIK+吉田兄弟)」、少し成長してからは「Vertigo(U2)」などの曲を小気味よく滑っていた。時折、調子に乗りすぎて、フィナーレで転ぶのも愛嬌(あいきょう)だった。

舞台裏で全く違う顔見せる選手たち

舞台裏の選手たちは全く違う顔を見せる。演技とは別人のように子どもっぽかったり、クールなベテランがユーモアあふれる人だったりする。観光も兼ねているから、選手が案内することもある。荒川は主催するショーでは「おいしい店を調べて、毎晩、出演者全員で食事にいく」と話していた。

物心ついたころから、羽生は日本にいながらそうした空気を吸ってきた。ライバルとなるパトリック・チャン(カナダ)とはショーでも会っており、今回金メダルを獲得した演技のときに身につけていた衣装をデザインしたジョニー・ウィア(トリノ、バンクーバー五輪米国代表)は、かなり前から羽生に目をかけていた。

練習リンク求めて全国各地を転々

東日本大震災が起きた11年、羽生は仙台のリンクが使えず、全国各地を転々とした。青森県や神奈川県のリンクを使い、日本で行われるショーのすべてに出演することで、リンクを提供してもらった。ショーで使うリンクは本番の1週間ほど前に完成する。そのリハーサルや本番の合間の時間を使って練習した。

関西、北陸、関東、中部、九州……。仙台との往復と人前に立ち続ける緊張感で疲弊する一方、滑り込み不足も気になる。「人前でプログラムを通して行う機会も多いので、演技は磨かれる」と話した羽生。このシーズン、初めて世界選手権でメダル(銅)を獲得。そのときのフリーの楽曲が、レオナルド・ディカプリオ主演「ロミオ・ジュリエット」のサウンドトラック。震災の思いも込めて、今季も同じ「ロミオとジュリエット」(ニーノ・ロータ作曲版)を選んだ。

本田武史や高橋ら2000年代の男子フィギュア界興隆の礎となった2人とは、羽生はスタート地点が全く違うのだ。

選手数人でコーチの海外遠征費

高橋も羽生と同じで世界ジュニアに優勝した翌シーズンにシニアへ転向した。当時は羽生より1歳年長の16歳だったが、本田以外のトップ選手らをテレビの映像でしか知らない。通路で真剣モードのプルシェンコらを初めて見て「居場所がなかったし、オーラのある人のそばにいて気持ちが縮こまるような感じだった」と述懐した。

今はプラチナチケットの全日本選手権も、2000年代初めには観客席はガラガラ。当時は日本スケート連盟に潤沢な資金はなく、スポンサーもつかないから、海外遠征ではコーチの遠征費は選手が負担した。選手数人でコーチ1人分の費用を捻出し、交代でリンクサイドに立ってもらったことまである。

演出もつたなかった。エキシビションは通常、場内は暗く、ライティングを駆使する。だが1998年長野五輪では、試合と同じく会場全体が明るいままに行い、既にショーが盛んな時代だったから、フィギュア界でも驚かれた。

高橋世代も海外で気後れした経験

本田、荒川、高橋の世代までの選手は多かれ少なかれ、世界での評価を安定させるのに時間がかかり、海外で気後れした経験を持っている。特に男子は選手が少なく、女子に比べると戦績が劣っていたから、肩身の狭い思いもした。

だが羽生がシニアデビューした10年には、すでに男女ともに日本はフィギュア大国として知られていた。09年に始まった国別対抗戦、それより前の06年に再開したジャパン・オープンと、国際大会を日本で開催する機会が増え、国際スケート連盟(ISU)ジャッジ、関係者の来日も多くなった。

15歳だった羽生は意気込みすぎてミスしていたが、気後れした様子はほとんど見られなかった。シニア初戦から堂々としており、ワクワクしている感じが伝わってきた。11年2月の四大陸選手権(台北)では、シニア1年目で早々と国際大会初のメダル(銀)も獲得している。

「またファンタスティックな少年が日本から出てきたわね。ハニュウ? 今後も気をつけて見とくわ」。そのとき、フィンランドのISU理事に言われた言葉が忘れられない。=敬称略

(原真子)

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