2019年2月20日(水)

日米外交60年の瞬間 第5部

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日米で国会答弁擦り合わせ 講和発効まで(27)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

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2013/7/27 7:00
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吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の承認を求めて開かれた臨時国会で施政方針演説をした1951年10月12日、外務省条約局の藤崎万里条約課長が、日本橋の三井本館にあったGHQ外交局にフィン書記官を訪ねた。国会での条約審議に備えた日本政府答弁をつくるための米側との意見調整である。

藤崎・フィン会談

1951年
  12月24日
吉田首相がダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)
1952年
   1月18日
韓国、李承晩ラインを設定
   2月15日第1次日韓正式会談始まる
   2月28日日米行政協定に署名
   4月28日対日講和条約、日米安全保障条約発効、日華平和条約署名(8月5日発効)
1953年
   1月20日
アイゼンハワーが米大統領に就任。ダレスが国務長官に
   10月2日池田勇人自由党政調会長が訪米。池田・ロバートソン会談
  12月24日奄美群島返還の日米協定署名(25日発効)

藤崎は吉田の黒子として両条約の交渉にあたった西村熊雄条約局長の腹心である。後に条約局長、オランダ大使、タイ大使を務め、1977年には最高裁判所判事に就任する。外務省条約局の主流にいた人らしい経歴である。

当時の万里は36歳である。前駐米大使の長男一郎はまだ4歳だった。ともに外交官だった藤崎父子は、それぞれの立場で日米関係にかかわるわけだが、万里が条約局を歩んだのに対し、一郎には条約局経験はない。

ちなみに戦後の歴代駐米大使には下田武三、松永信雄、栗山尚一、斉藤邦彦、柳井俊二ら条約局長経験者が目立つ。戦後の日米関係がサンフランシスコ講和条約、安保条約を軸に動いてきたことを示すものだろう。このうち松永、栗山、柳井は、父親も外交官であり、条約局長を経験している。子息の3人は外務次官を経て駐米大使となった。

藤崎・フィン会談の記録をみると、外務省条約局の仕事の仕方の一端がのぞける。つまり国会での議員質問を想定し、それに対する答えを書いた文書をつくり、それを米側にぶつけ、米側の見解を踏まえて政府答弁を用意するわけである。

藤崎がこの日、用意した想定問答は以下の2問である。

問い1 条約には武力攻撃の場合、日本を防衛するよう合衆国に義務付ける規定がない。政府の解釈いかん。

問い2 日本への武力攻撃の場合に合衆国軍隊がとるべき軍事行動は法的にはいかに説明されるべきか。

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