2019年2月19日(火)

日米外交60年の瞬間 第5部

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経済でも冷戦を戦った日本 講和発効まで(14)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

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2013/4/27 7:00
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あす4月28日は日本が独立を回復した記念の日である。この物語でとりあげてきているサンフランシスコ講和条約が1952年4月28日に発効したからである。61年前のことである。

安倍政権は政府主催の行事を執り行う。この物語はそこに向けて、筆を急いでいるが、この時期、語り残すべき事実は、あまりに多く、1951年9月に筆を戻さなければならない。

講和条約への署名が終わり、日本にのしかかった重荷のひとつが賠償問題だった。東南アジアに対する賠償は、日本にとってまさしく戦後処理の問題であり、政治問題だった。

同時に、これらの諸国の開発に関わってゆくわけだから、経済問題でもあった。冷戦下で西側の立場をとる決断をした日本の立場は、国際経済との絡みでいえば、複雑だった。

対中輸出緩和は空文か

1951年
  12月24日
吉田首相がダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)
1952年
   1月18日
韓国、李承晩ラインを設定
   2月15日第1次日韓正式会談始まる
   2月28日日米行政協定に署名
   4月28日対日講和条約、日米安全保障条約発効、日華平和条約署名(8月5日発効)
1953年
   1月20日
アイゼンハワーが米大統領に就任。ダレスが国務長官に
   10月2日池田勇人自由党政調会長が訪米。池田・ロバートソン会談
  12月24日奄美群島返還の日米協定署名(25日発効)

この物語で紹介したエール大学教授のジョン・ルイス・ギャディスは米国の外交官ジョージ・ケナンの伝記を書いてピューリッアー賞を受けた。ケナンが冷戦史に残るのは彼が提唱した「封じ込め」政策のためである。

封じ込め政策は、今日やや誤解されている傾きもあるが、本来は放置すれば膨張するソ連共産主義を食い止める防御的概念である。ソ連に攻撃をしかけてゆくような攻撃的概念ではない。

主な手段は経済となる。要するに共産圏諸国に対しては重要物資を輸出しないということである。しかし日本にとり、ことが簡単ではないのは、当時、中共と呼んだ中国が隣国として存在する点だった。

51年9月17日、総司令部(GHQ)は通産省にある覚書を送った。綿糸、綿布、スフ糸、スフ織物、スフ綿、人絹糸、人絹織物の7品目については中共、北朝鮮など共産主義地区向け輸出についてはGHQの許可が必要なくなり、日本政府が独自に判断できるとする内容である。

7品目はいずれも繊維製品である。当時の日本が輸出できるのは、繊維製品だった。スフ、人絹はともに現代では死語に近い。広辞苑には次のようにある。安価な人造繊維である。

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