政客列伝 松村謙三(1883~1971)

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戦時議会で政調会長、幹事長に 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三(3)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2012/3/18 7:14
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1932年(昭和7年)の五・一五事件で政党内閣の時代は終わりを告げた。海軍長老・斎藤実大将を首相とする中間内閣が組織されて政友会から高橋是清、三土忠造、鳩山一郎、民政党から山本達雄と永井柳太郎が入閣した。この内閣で松村謙三は農林参与官に就任した。農相は「新官僚」として売り出していた内務省出身の後藤文夫、政務次官は近衛文麿の側近で貴族院議員の有馬頼寧(後に農相、大政翼賛会事務総長、日本中央競馬会理事長)だった。

■農林参与官、農林政務次官に

町田忠治と側近たち。前列左から松村謙三、小泉又次郎、町田、桜内幸雄。後列左から三好英之、大麻唯男、野田武夫、堤康次郎

町田忠治と側近たち。前列左から松村謙三、小泉又次郎、町田、桜内幸雄。後列左から三好英之、大麻唯男、野田武夫、堤康次郎

後藤農相は官僚らしく慎重な性格で、部下が提出した書類には簡単に判を押さず、そのまま書類をカバンに入れてしまうとなかなか出て来ないという評判だった。後藤は「民政党の黒幕」と言われた貴族院議員・伊沢多喜男の子分で、民政党寄りの人物である。有馬頼寧は旧久留米藩主の家柄の貴公子で、ある人が「あなたの名前は『あらまあ、偉いねえ』と読むのですね」と言うと「私の名前はさように読むのではありません。『あらまあ、頼りねえ』と読むのです」と答えるほどの粋人だった。

斎藤内閣の重要課題はデフレ不況で疲弊した農村の救済問題であった。軍部も農村救済を強く要求した。後藤農相は高橋蔵相と協議して農村負債整理組合法、農業動産信用法、米穀統制法の3法案を議会に提出して成立させた。米穀統制法は米価の上限と下限の公定価格を設定し、下限を下回ったら政府が買い上げ、上限を上回ったら政府が売り払うという内容で、松村参与官は後藤農相と民政党との連絡役を務め、議会対策にも走り回った。この時の働きで松村は農政通議員として頭角を現した。

斎藤内閣は帝人事件で退陣し、斎藤内閣を実質的に支えていた岡田啓介海相が首相となり、再び中間内閣を組織した。政友会から床次竹二郎、山崎達之輔、内田信也が入閣した。民政党からは町田忠治、松田源治が入閣した。政友会は入閣した床次らを除名し、野党の立場を鮮明にした。民政党は与党の立場をとった。この機会に若槻礼次郎民政党総裁は退任して後継総裁に町田商相を指名した。町田は「その器ではない」と強く固辞したが、大麻唯男幹事長らに説得されて総裁を引き受けた。万事慎重な町田はまず総務会長となり、昭和10年1月に正式に総裁に就任した。

1932年(昭和7年)6月
斎藤実内閣で農林参与官
1936年(昭和11年)4月
民政党総務に
1938年(昭和13年)4月
民政党政調会長
1939年(昭和14年)1月
平沼騏一郎内閣で農林政務次官
1940年(昭和15年)8月
民政党解党
1942年(昭和17年)4月
翼賛選挙に推薦候補で当選
1944年(昭和19年)5月
翼賛政治会の総務・政調会長
1945年(昭和20年)4月
大日本政治会の幹事長に

岡田内閣は右翼・軍部・政友会が仕掛けた「天皇機関説」事件で激しく揺さぶられたが、かろうじて持ちこたえて衆議院解散に踏み切った。1936年(昭和11年)2月の総選挙で与党の民政党は205議席を獲得して第1党になった。松村も4回目の当選を飾った。町田商相秘書官である野田武夫(朝日新聞記者出身)が神奈川県第2区で政友会の鈴木喜三郎総裁を競り落として当選し、大金星をあげたことが話題になった。民政党は久々の勝利にわいたが、その直後に起きたのが二・二六事件である。

当日朝、松村は町田商相からの電話で事件を知り、直ちに町田の私邸に急行した。野田秘書官と協力して町田を無事に宮中に送り届け、民政党本部に行ってさまざまな連絡に当たった。首相官邸も襲撃され、臨時閣議は宮中で開かれた。「昭和天皇独白録」(91年文芸春秋)によると「当時叛軍に対して討伐命令を出したが、それに付ては町田忠治を思い出す。町田は大蔵大臣(高橋是清暗殺で蔵相臨時代理兼務)であったが、金融方面の悪影響を非常に心配して断然たる所置を採らねばパニックが起ると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出すことが出来た」とある。

二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣以降、陸軍統制派の政治関与が強まり、政党の影響力はさらに後退した。松村は昭和11年4月に民政党総務となり、幹部の列に加わった。第1次近衛内閣の下で、日中事変が起こり、全面的な日中戦争に発展し、議会では国家総動員法が成立した。民政党も政友会も本音ではこの法案に反対だったが、時流に流されて結局は賛成に回った。

1938年(昭和13年)4月、松村は民政党政調会長となり、翌年1月には平沼騏一郎内閣の農林政務次官に就任した。農相は民政党の有力者・桜内幸雄である。昭和14年4月、政友会は鈴木総裁の後継をめぐって中島知久平、前田米蔵らの革新派と久原房之助、鳩山一郎らの正統派に分裂した。

■翼賛選挙に推薦候補で当選

翼賛選挙に推薦候補として出馬したころの松村謙三=毎日新聞社提供

翼賛選挙に推薦候補として出馬したころの松村謙三=毎日新聞社提供

昭和15年2月、民政党の斎藤隆夫が議会で「反軍演説」を行い、激怒した軍部は議会に斎藤の除名を要求した。民政党は斎藤に自発的な議員辞職を勧めたが、斎藤がこれを拒否したため除名決議に全員賛成した。除名決議に反対したのは政友会鳩山系の芦田均、宮脇長吉らわずか7名であった。民政党の町田総裁は軍部の横暴を苦々しく見ていたが、軍部との全面衝突は極力避けて民政党勢力を温存し、嵐が過ぎるのをじっと待つ「隠忍持久」の作戦をとった。

近衛文麿が第2次内閣を発足させて近衛新体制運動に乗り出すと政党解消の嵐が吹き荒れた。近衛は「既成政党を解消して新しい一大国民組織を作って軍部を抑える」という触れ込みで各党に解党を呼びかけた。これに呼応して麻生久の社会大衆党が解党し、政友会正統派も久原総裁が鳩山の反対を押し切って解党を宣言した。政友会革新派は土壇場で中島総裁が難色を示したが、前田米蔵に説得されて解党した。

民政党の町田総裁は「挙国一致、軍民一致は当然だが、軍部や官僚の独裁を許すことはできない。近衛新体制の中身を見極めなければ解党には応じられない」と解党には強硬に抵抗した。昭和15年6月、民政党内で近衛に接近していた永井柳太郎、桜内幸雄ら35人が町田の慎重姿勢に反発して脱党した。町田はなお抵抗を続けたが、最後は町田の側近としては松村の「兄貴分」である大麻唯男に説得されて同年8月、ついに民政党も解党し、すべての政党が姿を消した。

近衛新体制は軍部の協賛機関に変質しつつあった。昭和15年10月、近衛を総裁とする大政翼賛会が発足したが、右翼・財界・旧政党から「憲法違反の幕府的存在」「ファッショだ」「アカだ」との批判が強まり、嫌気がさした近衛は平沼騏一郎内相に翼賛会改組を委ねた。翼賛会は骨抜きにされて意味不明な存在になった。競って解党した議員たちは思惑が外れ、大多数の議員は翼賛議員同盟(翼同)に流れ込んだ。旧民政党の町田、大麻、松村らも翼同に所属した。

東条英機内閣は大政翼賛会の下部組織として大日本翼賛壮年団を発足させ、この組織を背景に1942年(昭和17年)4月、推薦制の総選挙を実施した。松村も推薦候補として出馬し当選した。東条内閣は定員いっぱいの466人の推薦候補を立てたが、推薦候補者の当選は381人、非推薦候補者の当選は85人だった。選挙後、当選議員は推薦、非推薦にかかわらず全員が「翼賛政治会」(翼政)に属することになった。翼政会の主導権を握ったのは旧政友会の前田米蔵、山崎達之輔、旧民政党の大麻唯男である。

■大日本政治会の幹事長となる

戦時議会で質問に立つ松村謙三=朝日新聞社提供

戦時議会で質問に立つ松村謙三=朝日新聞社提供

松村は昭和19年5月、翼政会総務・政調会長に就任した。同年7月、戦局の悪化により東条内閣が退陣し、小磯国昭内閣が発足した。小磯内閣は「民意暢達」を掲げて議会内にも変化が表れた。東条内閣に批判的だった斎藤隆夫、川崎克、安藤正純と松村謙三の座談会が朝日新聞に掲載されたのもこのころである。この座談会で松村は政党復活の可能性に言及した。

翼政会に代わる新しい会派を作ろうとする動きが本格化した。このうち、旧政党と縁の薄い中堅・若手議員は東条内閣の閣僚だった岸信介を担いで新党結成をもくろみ、井野碩哉、赤城宗徳、船田中、永山忠則、池田正之輔ら32人が「護国同志会」を結成した。旧民政党、旧政友会出身の多くの議員は1945年(昭和20年)3月30日、翼政会を解散し、地方の下部組織を持つ政党色を帯びた新しい組織「大日本政治会」(日政)を結成した。総裁には南次郎陸軍大将が就任し、松村は幹事長として議会を取り仕切る立場になった。

同年4月、小磯内閣に代わって鈴木貫太郎内閣が発足した。松村は大日本政治会の幹事長として鈴木内閣と接触する機会が多く、終戦に向かう動きはほぼ正確に把握していた。松村はかねて内務省の町村金五警視総監や古井喜実警保局長と親しかった。鈴木首相の側近でもあった町村はソ連に和平仲介を依頼するため近衛を派遣する計画があることを松村に伝え、ソ連が仲介に応じれば満州、樺太を放棄することになるので非公式に議会内の根回しをするよう松村に依頼してきた。

ポツダム宣言受諾をめぐる閣議や御前会議の様子も民政党出身の桜井兵五郎国務相から詳細を聞いていた。そうした情報を大日本政治会の南総裁や町田忠治らに伝え、来るべき敗戦の混乱をいかに防ぐかについて思いをめぐらせていた。

戦時議会における松村謙三の立場について戦後、松村の秘書になった田川誠一(自民党代議士、自治相)は次のように記している。

「(戦時議会で)多くの政党人は、時勢に絶望して一切の公職から退き、隠遁生活を送る人と、国家存亡のときなので、不本意ながらも政府と一致団結して行こうとする二つのグループに分かれたが、松村氏は後者の道を選んだ。その実直な性格から国家の非常時に手を拱(こまぬ)いていることはできなかったのだろう。(中略)松村氏は結果的には政党解消を阻止することができず、翼賛会に名を連ねたことを戦後、強く反省し『やむをえない環境にあったにせよ、ひとりになっても軍部に抵抗して所信を貫けなかったことは、自分の生涯に汚点を残した』と側近に漏らしていた」。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 松村謙三著「三代回顧録」(64年東洋経済新報社)
 松村正直編「花好月圓(松村謙三遺文抄)」(77年青林書院新社)
 田川誠一著「松村謙三と中国」(72年読売新聞社)
 木村時夫著「松村謙三(伝記編上下)」(99年桜田会)
 松村謙三著「町田忠治翁伝」(50年町田忠治翁伝記刊行会)

※1枚目の写真は「町田忠治翁伝」から

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