予測できた「地デジ特需」終了 テレビ巨額投資の謎
電子立国は、なぜ凋落したか(2)

日本の電子産業の凋落を一般社会に印象づけたのは、2012年におけるテレビ事業の極度の不振だろう。その前の数年間は薄型テレビがよく売れ、テレビ事業は活況を呈していた。
テレビの内需と生産は、日本では2003年から急増した(図1)。2003年は3大都市圏で地上デジタル放送が始まった年である。「地デジ特需」(地上デジタル放送を見るためのテレビ買い替え需要)が同時に始まった。もちろんテレビ・メーカーは、これを期待していた。国も産業振興策として、テレビの買い替え需要を促進する。

2009年5月15日、ときの麻生内閣は「家電エコポイント事業」を始めた。地上デジタル放送対応のテレビなどを買うとエコポイントが付与され、指定商品が安く購入できるという制度である。地球温暖化防止、経済の活性化、地上デジタル放送対応テレビの普及が目的とされていた。この制度は2011年3月31日まで続き、地デジ特需を後押しする。
テレビの内需と生産は2010年にピークに達し、2011年、2012年には壊滅的に急減する(図1)。地デジ特需の終わりである。アナログ・テレビ放送の電波は、2011年7月24日(東日本大震災を被災した東北3県では2012年3月31日)に止まった。このアナログ停波日程を考えれば、2011年、2012年におけるテレビ内需の激減は「予定通り」だった。この様子を、もう少し詳しく見てみよう。
アナログ停波後に生産も輸入も減少
図2は2010年以後のテレビの生産・輸出入・内需を、月次で見たものである。内需は2010年末に最大となり、対応して生産も輸入も同年末がピークだ。大勢が2010年末に新しいテレビに買い替えたというわけである。

2011年6月にも小さなピークがある。7月のアナログ停波目前に、あわてて買い替えたということだろう。以後、内需は衰え、生産も輸入も減少を続ける。
ただし2013年秋以後、内需が上向く傾向が見られる。2014年4月の消費税増税を前にした駆け込み需要だろうか。
以上に見たように、日本国内のテレビ需要の推移は、2011年7月の地上デジタル放送への切り替えスケジュールに、見事に対応している。まさに「地デジ特需」だったのだ。
テレビはもはや「外国から輸入するもの」
2011年後半以後、日本の電機メーカーのテレビ事業は、いずこも不振を極める。テレビ事業から撤退するメーカーも相次いだ。ディスプレー・パネルを自社生産している日本メーカーは、パナソニックとシャープの2社だけとなる。そのパナソニックも、プラズマテレビ生産からは撤退し、液晶テレビについても外部調達を増やす方向に転じた。
もう一つ注目すべきは、2012年の後半から、輸入が生産を上回っていることである(図2)。内需の拡大を埋めるのは、生産ではなく輸入になった。テレビは日本国内で作るものではなく、外国から輸入するものになりつつあるのだ。
ただし、輸入品には日本ブランドもある。たとえば東芝は2013年以後、テレビを国内では生産していない。東芝のテレビは、貿易統計上は「輸入品」として扱われているはずだ。
なぜ大型投資を続けたのか
地デジ特需によってテレビの国内需要が急伸していた時期に、日本のテレビ・メーカーは大型投資を進めた。たとえばパナソニックは2007年から2010年にかけて、薄型テレビやパネルに対し、毎年2000億円前後の投資を続けた。またシャープは2007年7月、大阪府堺市に液晶パネルの新工場建設を発表した。約4000億円の大規模投資だった。
それらの大型工場が本格稼働を始めて間もなく、国内テレビ需要は激減する。大型工場の稼働率は下がり、在庫が積み上がる。各社のテレビ事業の採算は一気に悪化した。
2011年7月にアナログ放送の電波が止まることは、早くからカレンダーとして予定されていた。地デジ特需は、その前に終わるに決まっている。2007年以後に大型投資をすれば、特需終了のころに供給過多になる。それは十分に予想可能だったはずである。
「地デジ移行後に売れなくなったらどうするか、という考えがなかった」。ケーズホールディングスの加藤修一会長兼CEO(最高経営責任者)は日本のテレビ・メーカーを、こう批判する。2011年7月以後の地デジ特需終了を知りながら、各社はなぜ大型設備投資を敢行したのか…。
確かに2007~2010年、テレビの国内需要は旺盛だった(図1)。輸入も伸びていた。販売部門は「もっと供給を増やしてほしい」と言っていたに違いない。売れ行きが伸びていたから投資資金に不足はない。設備投資の誘惑に、テレビ各社の経営陣は耐えられなかったということだろうか。
テレビ輸出は1985年以後は微々たるもの
地デジ特需終了は日本国内に限ったことである。海外需要が同時に縮小するわけではない。これが各社の設備投資を正当化したようだ。例えば液晶テレビの大型化が全世界で急速に進展するとシャープは予測、その大型テレビの需要増大に合わせるため、というのが堺工場の位置付けだった。
この予測が実現しなかった原因として、いわゆる「リーマン・ショック」(米投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻を引き金にした金融危機)による世界的不況が挙げられている。
けれどもリーマン・ショックとは無関係に、日本からのテレビ輸出は微々たるものにすぎない(図1、図2)。日本製テレビが盛んに輸出されていたのは1985年以前である。その後、日本企業はテレビ事業の重点を、海外で生産し、海外で販売する活動にシフトしていた。
テレビ・パネル工場の国内建設は何が目的だったか
ところが2007~2009年に、日本企業はテレビ・パネル工場を国内に建設した。海外市場を期待しての国内投資なら、投資の成果は何らかの形で輸出に反映させなければならない。
テレビ輸出が微々たるものであることを承知で、国内工場に投資したのだろうか。そうだとすればテレビではなく、パネルを部品として輸出するつもりだったことになる。そう意識していたかどうかはともかく、結果的に現在は、この部品事業が伸びている。
輸出は1985年を境に急増から急減へ
以上に述べた、近年の日本テレビ産業の盛衰は、地上デジタル放送への移行に伴う一過性の現象である。しかし放送のデジタル化の効果は「地デジ特需」だけではないはずだ。
本来なら放送事業に大きな構造変化をもたらすはずのものである。デジタル化によって日本の放送事業にどんな変化が起こったか、あるいは起こらなかったか。テレビ産業の歴史を遡って見てみよう。
かつて日本製カラーテレビは輸出の花形だった。米国のホテルに泊まると、そこには日本製カラーテレビがあった。そして、あちこちで貿易摩擦を起こしていた。しかしそれは、すでに30年以上も前のことだ。
日本製テレビが盛んに輸出されていたのは、実は1985年までである(図3)。日本の電子産業は1985年を境に変調した。それが最も劇的に表れたのが、テレビをはじめとする民生用電子機器の動向である。

第2次世界大戦後の日本の電子産業は、まず民生用電子機器の生産と輸出によって成長していく。この様子を示しているのが図4である。1985年までは、生産した民生用電子機器の多くを輸出している。

しかし1985年をピークにして、以後は輸出が急減し、輸入が徐々に増え始める。2000年代に入るころから、生産も輸出もやや回復する。これには薄型テレビが貢献していると考えられる。とはいえ、その輸出金額は1985年に比べると、はるかに小さい(図4)。
それは、1985年から激しい円高になったからである(図3)。民生用電子機器の輸出金額は以後、減少を続ける。1985年を境に、日本の民生用電子機器産業の構造は変わった。この構造転換は、米国の対日政策変化がもたらしたものである。
日本の工業力を抑制へ米が政策転換
東西冷戦期の1950~1985年の間、日本の電子産業は米国の支援の下で高度成長した。この対日政策が決定的に変わったのが1985年である。日本の工業力は米国にとって、もはや支援の対象ではなくなる。
旧ソ連を中心とする東側諸国の脅威が薄らいだからである。冷戦政策遂行のための「アジアの工場」は、もはや不要になった。日本の工業力を抑制したほうが米国の国益にかなう。日米関係は、こう変わっていく。
短期的な米国政策の変化もある。当時のレーガン米大統領(1981年就任)は、「レーガノミックス」と呼ばれる経済政策を実施した。減税による景気刺激、軍事支出の増加、「強いドル」の維持のための高金利政策など―がその内容である。その結果、米国の国内需要が伸び、日本からの対米輸出も大きく伸びた。また円安・ドル高を招く。これが1980年代前半の状況である。この時期の日本の電子産業躍進は、この円安に支えられていた。
ところが1985年にレーガン政権は2期目(1985~1989年)に入り、政策が変わる。東西冷戦の脅威が薄らいできたからである。1985年9月に「プラザ合意」と呼ばれる「円高・ドル安」政策が先進国間で決まる。以後の数年間に1米ドル=240円から120円にまで、急速に円高が進んだ。
冷戦を前提とする日本の工業力強化という長期政策と、レーガノミックスによる円安という短期政策、長短二つの米国政策が1985年に二つとも転機を迎えた。日本の工業力を強化から抑制へ、そして円安から円高へ、同年を境に米国政策は、こう変わった。
VTRが過去最大の民生用電子機器
図3は、輸出金額はカラーテレビよりVTR(ビデオ・テープ・レコーダー)のほうが、はるかに大きかったことを示している。日本の電子産業にとって、VTRは過去最大の民生用電子機器である。
その生産金額は全盛期には2兆円を超え、輸出金額は1.6兆円に達する。しかし、そのVTR輸出も1985年を過ぎると急減する。さらに現在は、単独のVTRは生産も輸出もほとんどなく、DVDとの一体型がわずかに残る。
VTRの次は何か。1980年代後半から、日本の電子業界は「ポストVTR」を求めて努力を続けた。合言葉としては、ポストVTRはマルチメディアであり、情報家電だった。
しかしそれは、いまだに見果てぬ夢である。VTRに匹敵するほどの生産や輸出を実現した民生用電子機器は現れていない。その現実を図3と図4は雄弁に物語る。
「高精細化」「薄型化」「デジタル化」
VTR以後、それなりに大きな生産を実現した民生用電子機器は、再びテレビだった。2010年には日本製テレビの生産金額は1兆円を超える。このテレビは液晶を主体とする薄型(フラット・パネル)テレビだ。
その生産金額は1兆1362億円の2010年をピークに、以後、失速ぎみに急減する(図1)。2013年の生産金額は770億円にすぎない。わずか3年で、生産金額は14分の1以下に激減した。
それでも日本のテレビ事業は21世紀に入って、短期間とはいえ活況を呈した。これを実現したのは、「高精細化」「薄型化」「デジタル化」という三つの技術である。なかでもデジタル化は、放送が情報処理や通信と融合していく可能性を内包している。
同時期に、通信分野でもデジタル化が進み、さらにインターネットという大波が押し寄せてきていた。それは、放送と通信の区別が、少なくとも技術的にはなくなるということでもあった。
しかし、「技術的可能性」と、その「社会的実現性」は、まったく別のことである。(続く)
[日経テクノロジーオンライン2014年1月9日付の記事を基に再構成]関連リンク
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