2019年6月21日(金)

日米外交60年の瞬間 第3部

フォローする

短かったポーツマスとサンフランシスコの間 サンフランシスコへ(49)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

2012/7/21 7:00
保存
共有
印刷
その他

1951年9月初めは、日本の新聞史のなかで特筆すべき時だった。講和への集中的な報道・論評があったからである。

いまよりもずっと経済報道に傾斜していた日本経済新聞ですら、9月4、5、6、7、8、9日と少なくとも6日連続で講和関係の1本物社説を掲載した。

日本の新聞は毎日2本の社説を掲載するのが普通であり、特に重要なテーマの場合に限って1本通しで論じる。ニュースに対応した社説でありながら、このような形での連載は、おそらく他に例がない。

講和、独立は、当時の日本にとってそれほどまでの関心事だった。

事実上の連載社説の初回となる4日付社説は「講和会議に臨む構え」と見出しにある。連載社説はそれぞれに読み応えがあるが、4日付はとりわけ歴史を感じさせ、21世紀を生きる人々が陥りがちな歴史の錯覚に気づかされる。

■反対派に自制を求めた日経社説

「連合国51カ国、それに敗戦国であるわが国を加えて、世界52カ国の代表が集り、いよいよ国連創設の地サンフランシスコ、場所も同じサンフランシスコで講和会議が開かれる」

社説はこう始まる。淡々とした筆致で、当時としては当然の事実である参加国数、それに場所を明記する。歴史的行事を気負わずに論評しようとする記者の姿勢が感じられる。

現代人のなかにある歴史の錯覚に気づかされる記述がそれに続く一文中にある。

「日清、日露両戦争後の講和を知っている人もだんだん少なくなり、第一次大戦後のベルサイユ講和会議の記憶も薄れていくが、」の一節である。「だんだん少なくなり」とあるのは、逆にいえば、51年当時は、日清、日露戦争後の講和を知る人がいたことになる。

年表をみれば、それは簡単に理解できる。日清戦争の講和がなされたのは、1895年だから、51年からみると56年前であり、51年当時それを記憶するひとは60歳以上であり、それほどまれではなくいたはずである。

ポーツマス条約を結んだ小村寿太郎(外務省外交史料館蔵)

ポーツマス条約を結んだ小村寿太郎(外務省外交史料館蔵)

ポーツマスでの日露講和は1905年だから、46年前である。時間があっているともいえるが、2012年の46年前は1966年である。大相撲は大鵬、柏戸による柏鵬時代、加山雄三の「君といつまでも」がヒットし、12月27日に佐藤栄作首相による「黒い霧解散」があった年である。本欄の読者にはその時代をしっかり記憶しているひとも少なからずいるはずである。

ベルサイユ講和は1919年だから32年前。いまから32年前は1980年であり、日本経済がバブルに入る80年代が始まった年である。

つまり日露講和、ベルサイユ講和は、51年当時の日本人にとって比較的身近だったのである。そして社説執筆者がこうした過去の講和に触れたのは、次の個所を強調するためだった。

「日清戦争後には三国干渉があって国民は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を誓った。日露戦争の時には講和条約に反対して焼打事件などが起った。今度の平和条約にも反対がある……」

ソ連、中国を含めた全面講和ではなく、米英など自由主義陣営諸国との多数講和になったサンフランシスコでの講和条約を是認する立場の日経は、反対派が日露戦争後に起きた日比谷焼き打ち事件のような暴力的行動に出ることを戒めたのである。

決して過剰な戒めではなかった。この物語でも触れているように、当時の日本では自由主義か共産主義かという体制の選択をめぐる議論は決着していなかったからである。講和反対は革命のスローガンたり得たのである。

■いまだ「戦後」なのは「不戦」の証左

1951年
4月11日
トルーマン大統領がマッカーサー元帥を連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米極東軍・極東陸軍総司令官から解職。後任にリッジウェー中将
4月16日ダレス特使再来日
6月20日日本政府、第1次追放解除を発表
8月6日日本政府、第2次解除を発表。鳩山一郎ら追放解除される
9月1日米、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋安保条約に調印
9月4日サンフランシスコ講和会議始まる
9月8日吉田首相、対日講和条約、日米安全保障条約に調印
12月24日吉田首相、ダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)

サンフランシスコでの日本の選択は、そこに生きる人たちにとり、その後の時間の流れを短く感じさせる効果があったように思える。サンフランシスコとポーツマスやベルサイユとの距離は、2012年のいまと51年のサンフランシスコとの時間よりずっと短い。

それなのに長く感じるとすれば、ポーツマスやベルサイユの時代を知らないからではあるが、それだけでなく、サンフランシスコと現代との間を短く感じるからではないかと思える。

日本が参戦した戦争がなく、社会を根底から覆すような変化がなかったからだろう。戦後という言葉がいまだに使われ、それが1945年8月15日以降を指す事実は、いわゆる戦後秩序が良くも悪くも続いている証左である。つまりは不戦の証左である。

講和会議そのものに入っていく前に、少しだけ歴史を先取りする。

サンフランシスコでの吉田の判断は、日本にとって長い平和をもたらした。ポーツマス条約を結んだ小村寿太郎は陸奥宗光とともに歴史上最も評価が高いとされる外相であり、サンフランシスコで講和条約、安保条約を結んだ吉田茂が戦後の首相のなかで最も評価されているのも、平和な時代の基礎を築いたからだとすれば、当然なのだろう。

日米外交60年の瞬間をMyニュースでまとめ読み
フォローする

保存
共有
印刷
その他

電子版トップ

電子版トップ連載トップ


日本経済新聞社の関連サイト

日経IDの関連サイト

日本経済新聞 関連情報