2019年1月24日(木)

政客列伝 松野鶴平(1883~1962)

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吉田首相にとどめ、参議院議長に 「吉田茂を引き出した男」松野鶴平(6)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

(3/3ページ)
2012/6/17 7:00
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昭和29年12月10日、鳩山一郎は念願かなって民主党内閣を発足させた。自由党は野党になった。鳩山首相は左右社会党との約束に従って昭和30年1月24日、衆議院を解散した。この選挙で民主党は大きく議席を伸ばしたが、過半数には達せず、自由党は議席を大幅に減らして惨敗した。選挙後、民主党の三木総務会長は自由党に保守合同を呼びかけた。民主党と自由党の保守合同協議は総裁問題で難航したが、総理は鳩山、総裁は鳩山、緒方、三木、大野の4人を代行委員とすることで妥協が成立し、昭和30年11月15日、保守勢力を結集した自由民主党が発足した。松野は参議院自民党議員会長になった。

1956年(昭和31年)1月、次期首相間違いなしと言われた自民党総裁代行委員の緒方竹虎が急死した。三木、大野両代行委員と岸幹事長、石井光次郎総務会長が協議した結果、緒方に代わる総裁代行委員に松野を決定した。緒方の死去で鳩山首相の対抗馬がいなくなったため、自民党は4月5日の党大会で鳩山を正式に初代総裁に選出した。この直前の4月3日、松野鶴平は第4代参議院議長に当選した。緑風会出身の河井弥八議長が同年7月の改選を控えて「選挙準備に専念したい」と突如辞意表明をした結果であった。

新教育委員会法案で大混乱する参議院本会議。議長席は松野鶴平=朝日新聞社提供

新教育委員会法案で大混乱する参議院本会議。議長席は松野鶴平=朝日新聞社提供

参議院議長は初代が松平恒雄、第2代が佐藤尚武、第3代が河井でいずれも緑風会出身であった。松野議長の誕生は保守合同と左右社会党の統一で参議院でも政党化が急速に進み、「参議院の良識」を代表していた緑風会が凋落しつつあることの象徴であった。松野が議長になったばかりの第24通常国会は自民党と社会党が激突して参議院では新教育委員会法案をめぐって会期末に乱闘騒ぎの大混乱が起きた。

自治体の教育委員会を公選制から任命制に改めるこの法案は鳩山内閣の目玉政策の一つで、すでに小選挙区制法案の成立断念に追い込まれた自民党執行部は何が何でも成立させる意気込みを見せた。社会党は日教組の突き上げを受けて実力で成立を阻止する構えをとった。本会議採決の攻防が始まると社会党の議員・秘書団が議長室を取り囲み、松野議長は軟禁状態になった。ようやく本会議を開いて議長席に座っても社会党議員が殺到して議事妨害を行い、隣の事務総長が負傷する事態も起きた。

徹夜国会になり、71歳の松野議長は体力の限界に達した。混乱した議場の秩序を回復するため、松野議長は自民党執行部の要請を入れて参議院では初めて警官隊の導入を決断した。2泊3日の徹夜攻防の末に新教育委員会法は緑風会も賛成して賛成143、反対69で可決・成立した。自民党の岸幹事長が議長室を訪れ、松野議長と抱き合って喜ぶ場面が見られた。

昭和31年7月の参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を維持し、さらに保守系議員を糾合して過半数を確保した。社会党も憲法改正阻止に必要な3分の1の議席を確保した。これにより参議院に一定の平和と秩序が訪れた。選挙後、松野は議長に再選され、翌昭和32年1月の通常国会再開の際、自民党と社会党は衆参両院で国会正常化を申し合わせた。

■党籍離脱を拒否、政防法案握りつぶす

1959年(昭和34年)7月、岸内閣の下で行われた参議院選挙で自民党は71議席を獲得し、非改選と合わせて135議席に達した。松野もこの選挙で3回目の当選を果たし、選挙後に三たび参議院議長に選出された。選挙後の岸内閣の改造で松野頼三が労相として入閣し、野田卯太郎―松野鶴平に続く憲政史上初めての親子3代大臣の誕生が話題になった。

昭和34年度予算成立で松野議長(左)と握手する岸首相(右)。中央は佐藤蔵相

昭和34年度予算成立で松野議長(左)と握手する岸首相(右)。中央は佐藤蔵相

議長3選にあたって社会党と緑風会は松野に党籍離脱を強く要求した。これは前年、警職法改正案をめぐって国会が紛糾した際に川島正次郎自民党幹事長と浅沼稲次郎社会党書記長の間で衆議院の正副議長は党籍を離脱することを申し合わせ、参議院についても「自主性は尊重するがこの申し合わせに従って運営するよう要請する」としていたからである。松野は「私は母の胎内にいた時からの政党人だ」と言い放って党籍離脱を断固拒否した。

松野は、国会の混乱を防ぐために議長の権威を高める必要があるが、それは党籍離脱という手段ではなく、むしろ多数党の党籍を持って多数党の横暴を内部から抑える力を持つことが大事である、という信念を持っていた。社会党の浅沼書記長が議長室に乗り込み、党籍離脱を直接勧告したが、松野は軽く一蹴した。この後、記者団の質問に答え「みんなコドモだから親爺の言うことは判ってくれるよ」と平然としていた。

松野はこの信念を口先だけでなく、自らの行動で実行に移した。昭和36年の通常国会に自民党は民社党と共同で政治的暴力行為防止法案を提出した。社会党が強く反対し、衆議院は強行採決で通過した。池田勇人首相はこの法案の成立に強くこだわっていた。審議に協力的な民社党のメンツを立てる必要があり、国会後の訪米を控えてこの法案が不成立なら国際信用が傷つくことを懸念していた。益谷自民党幹事長が松野議長を訪ねて法案成立への協力を強く求めたが、松野は「参議院の自主性に任せてくれ」とやんわり拒否した。益谷は池田首相と会談するよう松野に求めたが、これも拒絶した。

松野は佐藤栄作と極めて親しかったが、池田とはソリが合わなかった。参議院自民党も、この国会は農業基本法の成立で手いっぱいで政防法案の成立は無理と判断していた。結局、政防法案は参議院で握りつぶされ、継続審議となった。池田首相は政防法案不成立の経緯を見て岸・佐藤兄弟が松野と組んで倒閣を仕掛けたとにらんだ。池田は訪米帰国後の内閣改造で岸派、佐藤派を遠ざけ、大野派、河野派、三木・松村派を取り込んだ内閣改造に踏み切った。

1962年(昭和37年)7月の参議院通常選挙を機に松野鶴平は参議院議長を辞任した。前年、糖尿病の悪化で入院するなど松野の体力は衰えが隠せなくなった。選挙後、後任の議長には岸、佐藤兄弟と並んで「長州ご三家」と言われた自民党の重宗雄三が選出された。松野は議長退任からわずか2カ月後の10月18日に日本医大病院で永眠した。77歳だった。

松野鶴平は議長退任の際に参議院本会議で次のように述べている。「私は国会運営の根本は、国会議員の心構えにあると存じます。各党各派ないし各議員が、国民に対する責任を自覚し、お互いに参議院を辱めないようにとの気持ちをもって、忍耐強く話し合えば、大抵のことは解決するものと信じます。肝要なことは、本院は良識に従い常に自主的な態度を持するということであります。院内の事の処理に当たっては、みだりに院外の運動に左右されたり、利害団体の圧力に屈することのないようにいたさねばなりません。対衆議院の関係においても同様でありまして、両院が協調しながらも、各自が自主性を堅持することが、二院制度の要諦であります。かくして初めて参議院の権威が高まり、使命は達成されるのであります」。=敬称略

(終わり=次回は8月から椎名悦三郎です)

主な参考文献
 酒井健亀著「松野鶴平伝」(72年熊本電鉄株式会社)
 松野鶴平著「私の履歴書」(私の履歴書第九集=59年日本経済新聞社)
 松野鶴平宛吉田茂書簡8通(松野頼久衆議院議員提供)
 「オーラルヒストリー松野頼三」(03年政策研究大学院大学)

※3枚目の写真は「松野鶴平伝」から

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