政客列伝 松野鶴平(1883~1962)

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吉田首相にとどめ、参議院議長に 「吉田茂を引き出した男」松野鶴平(6)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/6/17 7:00
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1953年(昭和28年)2月、衆議院予算委員会での吉田首相の「バカヤロー」発言で政局は再び大混乱に陥った。野党提出の首相懲罰動議が自由党民同派と広川派の欠席で可決された。広川農相は緒方副総理の急速な台頭と佐藤栄作の幹事長就任に不満を抱き、民同派に急接近した。民同派で陣頭指揮をとったのは三木武吉である。三木は野党に内閣不信任案提出を働きかけ、これに同調する構えを見せて吉田首相に総裁を鳩山に譲り渡すよう迫ったが、吉田は強気に突っぱねた。

■吉田と鳩山の間で

1953年(昭和28年)3月
参議院自由党議員会長に
同年5月
参議院議長選挙で敗れる
同年11月
吉田・鳩山会談に同席。鳩山が自由党に復党
1954年(昭和29年)11月
吉田首相を一喝、吉田内閣総辞職
1955年(昭和30年)11月
保守合同、参議院自民党議員会長
1956年(昭和31年)2月
自民党総裁代行委員
同年4月
参議院議長に当選
同年7月
参議院議長再選
1959年(昭和34年)6月
参議院選挙で3回目の当選、参議院議長3選。野党の党籍離脱要求を拒否
1962年(昭和37年)8月
参議院議長退任
同年10月18日
死去、77歳

内閣不信任案は民同派の一部が賛成して可決され、吉田首相は直ちに衆議院を解散した。この間、鳩山は松野を招いて「自分の手で作った自由党を割ることは何としても避けたい。解散は絶対にやるべきではない。事態収拾に何かよいチエはないか」と相談したが、松野にもチエはなかった。三木がいくら脅しても吉田に政権を手放す気が全くないことを知っていたし、前年吉田にだまされた形になった鳩山に三木ら強硬派を抑える力がないことも分かっていた。

不信任案に同調した三木、河野、石橋ら民同強硬派22名は自由党を脱党して鳩山を総裁に担いで分派自由党を結成した。この分派自由党に広川ら広川派12名が合流した。バカヤロー解散から2日後の3月16日、松野は参議院自由党議員会長になった。4月19日の総選挙の結果は吉田自由党199、改進党76、左派社会党72、右派社会党66、鳩山自由党35議席であった。吉田自由党は過半数を大きく割り込み、鳩山自由党も不振であった。

4月24日は半数改選の参議院議員通常選挙が行われ、松野は2回目の当選を果たした。選挙後、改進、鳩自、右社、左社の野党4党は議長選挙で共闘した。その結果、衆議院では改進党の堤康次郎が自由党の益谷秀次を破って議長になった。参議院では自由党の松野が候補になったが、本会議の投票で緑風会の河井弥八に敗れて落選した。首相指名選挙では野党の足並みはそろわず、第1党の自由党・吉田茂が指名されて自由党単独少数の第5次吉田内閣が発足した。

吉田内閣の懸案は防衛力増強と引き換えに米国の経済援助を引き出すMSA(日米相互防衛援助)協定問題だった。これを実現するには保守野党の改進党の協力を得ることが不可欠だった。池田勇人自由党政調会長が重光葵改進党総裁の後見人である大麻唯男と水面下の折衝を開始した。その結果、自衛隊創設と長期防衛計画策定で合意に達し、9月27日に吉田首相が鎌倉の重光総裁邸を訪ね、次期首相には重光もありうることをにおわせて重光の野心をくすぐった。大麻は自由党と改進党の提携を通じて吉田から重光への政権バトンタッチを画策していた。

その一方で第5次吉田内閣に国務相として入閣した安藤正純と大野伴睦は鳩山自由党の復党工作を展開していた。安藤と大野は「このまま党外にいたら政権は緒方に行ってしまう。へたをしたら重光に横取りされるかもしれない。吉田ももう長くはないから早く復党した方がよい」と鳩山を説得した。自由党と改進党の提携が進んで鳩山自由党は政界で孤立しており、鳩山の心境も復党に大きく傾いた。

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