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ロッキード事件、三木降ろし失敗

「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(7)

政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

三木武夫首相と椎名悦三郎自民党副総裁の蜜月関係は長続きしなかった。最初のほころびは三木が国会で首相に指名される前日の12月8日におきた。この日朝、椎名は台湾の馬樹礼東京代表の表敬訪問を受けた。馬代表は三木総裁を表敬したいとの希望を伝え、椎名もまだ正式に首相に就任していないので対中国との関係でも問題あるまいと判断して三木へ取り次ぐことを約束した。しかし、三木総裁は「新聞記者の目があるから」と言って馬代表との会見を拒否した。

三木首相の「世論迎合政治」に反発

三木退陣問題で自民党三役と協議する椎名副総裁(中央)。右は中曽根幹事長、左は灘尾総務会長、松野政調会長=毎日新聞社提供

台湾との間には、日台航空路線復活という懸案があり、椎名は新聞や中国の目ばかりを気にする三木の政治手法に強い違和感を持つようになった。椎名は三木政権に二つの注文をつけた。外交面では「デタント(緊張緩和)呆け」という言葉を使い、緊張緩和の安易なムードに流されず、米国との関係を固め、韓国、台湾にも十分に目を配るよう求めた。また、党改革、党近代化を着実に進めるよう進言した。

椎名は「三木政権生みの親」と言われ、「椎名院政」という言葉が生まれるほど、三木政権に強い影響力を持った。椎名と三木は政治資金規正法改正問題でも対立した。三木首相が企業献金全廃を打ち出したからである。椎名の党改革の方向は献金を党に集中させ、選挙も党が主体となる「党営選挙」をめざし、その前提として小選挙区制の導入を考えていた。三木首相が当時の「企業批判」の風潮に乗って企業献金の全廃を打ち出したのは、椎名の目からは「安易な世論迎合」と映った。

三木首相が打ち出した独禁法改正問題も椎名の逆鱗(げきりん)に触れた。三木首相は独禁法改正で企業分割の条項を入れることにこだわったが、これも椎名の目には、企業批判の風潮に便乗した大衆迎合、世論迎合と映った。独禁法改正案は土光敏夫経団連会長を先頭にした財界や通産省の強い反対で内容が骨抜きにされ、国会では参議院で廃案となった。椎名は自民党にはあまり相談せず、新聞世論や野党を味方にして事を進めようとする三木首相の政治手法に批判を強め、「三木政権の生みの親であっても、育ての親になると言った覚えはない」と突き放すようになった。

三木首相は「生みの親」である椎名への恩義と影響力を考慮して特に外交面では本来のハト派色を封印し、韓国の朴正熙政権との間では金大中問題の沈静化に努め、中国との平和条約締結交渉でも中国が主張する覇権条項には強く抵抗した。自民党内タカ派に配慮して昭和50年8月15日には首相として戦後初めて靖国神社にも参拝した。そうした努力にもかかわらず、院政気取りで首相批判を続ける椎名の存在は三木にとって次第に鬱陶しいものになった。

椎名のもとには連日のように田中派をはじめ各派の議員が押しかけ、口々に三木の政治手法への違和感を訴えた。それは暗に「椎名裁定は誤りだったのではないか」というニュアンスが込められていた。そうした声がますます椎名を三木批判に駆り立て、両者の関係は冷却化の一途をたどった。 1976年(昭和51年)2月5日、驚くべき事件の第一報が米国から飛び込んできた。米国上院外交委多国籍企業小委員会の公聴会証言で、航空機売り込みのためロッキード社から児玉誉士夫、小佐野賢治、丸紅を通じて多額の工作資金が日本政府高官に流れたことが明るみにでた。政界は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

田中、大平、福田と相次ぎ極秘会談

2月6日の衆議院予算委員会で野党はロッキード事件の追及を開始し、三木首相は「日本の政治の名誉を賭けても真相を究明する」と言明した。政局はロッキード事件一色になり、真相究明を求める世論は怒とうのように高まった。田中角栄前首相と「刎頸(ふんけい)の友」である小佐野賢治国際興業社主の名前が出たことで事件と田中の関連性が取りざたされ、児玉誉士夫との関係で自民党の中曽根康弘幹事長にも疑惑の目が向けられるなど、政界は疑心暗鬼に陥った。

2月24日、三木首相は米国にロッキード事件に関する資料提供を求めるフォード大統領宛の親書を送った。事件究明への断固たる姿勢を示したものだが、椎名はこうした三木の態度を「はしゃいでいる」と批判した。真相究明は検察に任せればいいのであって、政治家が先頭に立ってやることではないという立場である。国会では連日のように事件関係者に対する証人喚問が行われた。

3月12日、フォード大統領の返書が届き、米国は非公開、捜査限定という条件付きで資料提供に応じると回答してきた。三木首相は米国の条件を受諾し、4月10日、検察当局は米国資料を入手した。灰色高官の公表問題で審議が空転していた国会は4月21日、与野党の妥協が成立して正常化し、昭和51年度予算にもようやく成立にメドが立った。5月に入ると検察当局のロッキード事件捜査はようやく核心に入りつつあった。

こうした矢先の5月13日、椎名副総裁が田中前首相、福田赳夫副総理、大平正芳蔵相と相次いで会談し、三木首相の退陣を求めることで一致したと読売新聞が報道し、世間を驚かせた。椎名は7日に田中、9日に大平、10日に福田と会談していた。第1次「三木降ろし」の幕開けである。三木首相は直ちに反撃した。同日の日経連大会のあいさつで「この難局処理は、40年間ひたすら議会制民主主義にささげてきた私の政治生活の総決算だと覚悟している。中途半端に、私の使命と責任を放棄することは絶対にない」と強調して退陣要求を一蹴した。

世論の厳しい批判浴びた三木降ろし

灘尾総務会長(左)の仲介で実現した三木首相(中央)と椎名副総裁の会談=毎日新聞社提供

椎名主導の三木降ろしは「ロッキード隠し」と受け止められて世論の激しい批判と攻撃にさらされた。福田と大平は世論の批判を恐れて椎名との会談の事実さえなかなか認めようとしなかった。椎名の行動を非難する声が自民党本部や椎名事務所に殺到した。広尾の私邸には脅迫状が届き、右翼の街宣車まで押しかけてきた。逆に三木首相のもとには「三木降ろしに負けるな」「ロッキード隠しを許すな」という激励の声が押し寄せた。

ハラが据わっているはずの椎名も世論の激しい反発にうろたえた。ロッキード事件捜査の真っ最中に渦中の人物である田中と会談して三木降ろしで合意したのはロッキード隠しと受け取られても仕方がない行動だった。「三木には惻隠(そくいん)の情がない」という椎名の言葉も田中をかばっているような印象を与えた。三木退陣をめぐって真っ二つになった党内を収拾するため、三木首相は「椎名副総裁と会いたい」との意向を伝えてきた。椎名は一連の会談で田中、大平だけでなく、福田も総選挙前の首相交代を強く望んでいたことを踏まえ、こうした党内の大勢を背景に三木と会って首相退陣の道筋だけはつけたいと考えた。

三木・椎名会談は双方と懇意な灘尾弘吉総務会長の仲介で6月21日に実現した。ロッキード事件の真相究明は三木内閣の手で行う、この点は椎名も世論の動向を見て了承せざるを得なかった。三木首相に今すぐ辞めろと迫ることはロッキード隠しになりかねなかった。椎名は51年末に任期満了を迎える総選挙は新政権で臨むことが党内の大勢であると主張し、三木に大勢に従うよう迫った。しかし、自分の手で解散するチャンスをうかがっていた三木は進退への言及をかたくなに拒否した。

1976年(昭和51年)2月6日
国会でロッキード事件の追及始まる、三木首相が徹底究明強調
同年2月24日
三木首相、フォード米大統領に親書、ロッキード事件の資料提供求める
同年4月10日
検察当局、米国資料を受領
同年5月7日
椎名副総裁、田中前首相と会談、9日大平蔵相、10日福田副総理と相次いで会談、三木首相の早期退陣要求で一致
同年5月13日
三木首相「責任を放棄しない」と退陣要求拒否
同年6月21日
灘尾総務会長の仲介で三木・椎名会談、三木首相、総選挙前の退陣要求に応じず
同年7月27日
検察当局、田中前首相をロッキード事件で逮捕
同年12月
福田内閣発足に伴い、椎名自民党副総裁退任
1978年(昭和53年)10月
後援会幹部に政界引退伝える
1979年(昭和54年)9月
死去、81歳

灘尾総務会長の仲裁案はロッキード事件の解明と次期臨時国会は現体制で行い、「次期総選挙は強力体制を期す」というものであった。椎名は三木の粘り腰に負けてこの玉虫色の調停案を受け入れざるをえなかった。強力体制とは首相交代を含みとしていたが、人事の一新とも受け取れ、必ずしも三木の退陣を意味するものではなかった。こうして椎名主導の第1次「三木降ろし」は不発に終わった。三木降ろし失敗で椎名副総裁の政治的影響力は急速に低下した。

昭和51年7月27日、東京地検特捜部はロッキード事件に絡み、田中角栄を外為法違反容疑で逮捕した。捜査の手がいきなり政界の中枢に入り、自民党に言いしれぬ衝撃が走った。田中派はなりふり構わず三木降ろしに突進した。大平派、福田派、椎名派、船田派、水田派を糾合して8月19日、「挙党体制確立協議会」(挙党協)を結成し、代表世話人に船田中と保利茂を選出した。第2次「三木降ろし」である。三木降ろしの主導権は椎名から保利へ移った。

三木首相は挙党協によって解散権は封じ込められたが、退陣要求は頑強に突っぱねた。同年末の任期満了選挙まで政権を維持し、選挙後に自民党敗北の責任を負って退陣した。後任の首相には保利の調整によって一本化されていた福田が就任し、大平が自民党幹事長になった。福田政権発足とともに椎名は4年半在任した副総裁の座を去った。副総裁を辞めると椎名は政治的影響力だけでなく、気力や体力も急速に衰えを見せるようになった。

椎名は老人性結核にかかっており、下半身は筋萎縮症に悩まされていた。田中角栄から政権を担当するよう勧められて、これを断ったのはこうした病気から体力面で最後まで自信が持てなかったからであった。昭和53年6月、椎名は長年住み慣れた東京・広尾の自宅を離れ、川崎市生田の新居に移って静かに世の移ろいを眺めていた。

郷里・水沢の後藤新平像の前に立つ晩年の椎名悦三郎(右から3人目)=「椎名悦三郎写真集」より

同年10月、椎名は仙台市に椎名後援会の幹部を集め、次期総選挙には出馬せず、政界を引退する内意を伝えた。椎名後援会は後継者に次男の素夫を決定した。昭和54年6月、老人性結核と下半身の筋萎縮症の治療のため東京・信濃町の慶応病院に入院した。同年9月7日、大平首相は衆議院を解散した。総選挙の最中の9月30日、椎名は永眠した。81歳だった。

「省事」(事を省く)「不如省事」(事を省くに如かず)――椎名悦三郎が座右の銘にしていた言葉である。物事を処理するには、些細で煩雑なことは切り捨てて本質的なものを簡単明快につかむのがよい、本質でない小さなものに心を奪われると目がくらんで大切なものを逃してしまうという趣旨である。椎名は自ら「怠け者」「無精者」と称していた。しかし、死後に残された日記類や自らの思索の跡をまとめたメモ類を見ると、茫洋(ぼうよう)、飄逸(ひょういつ)とした人柄の椎名に几帳面で緻密な一面があったことがよくわかる。=敬称略

(終わり)

 主な参考文献
 「記録椎名悦三郎(上下巻)」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)
 椎名悦三郎著「私の履歴書」(私の履歴書第41集収載=70年日本経済新聞社)
 「現代史を創る人びと4(椎名悦三郎インタビュー収載)」(72年毎日新聞社)
 「椎名悦三郎写真集」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)
 藤田義郎著「椎名裁定」(79年サンケイ出版)

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