2019年1月24日(木)

政客列伝 椎名悦三郎(1898~1979)

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ロッキード事件、三木降ろし失敗 「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(7)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/9/16 7:00
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三木武夫首相と椎名悦三郎自民党副総裁の蜜月関係は長続きしなかった。最初のほころびは三木が国会で首相に指名される前日の12月8日におきた。この日朝、椎名は台湾の馬樹礼東京代表の表敬訪問を受けた。馬代表は三木総裁を表敬したいとの希望を伝え、椎名もまだ正式に首相に就任していないので対中国との関係でも問題あるまいと判断して三木へ取り次ぐことを約束した。しかし、三木総裁は「新聞記者の目があるから」と言って馬代表との会見を拒否した。

■三木首相の「世論迎合政治」に反発

三木退陣問題で自民党三役と協議する椎名副総裁(中央)。右は中曽根幹事長、左は灘尾総務会長、松野政調会長=毎日新聞社提供

三木退陣問題で自民党三役と協議する椎名副総裁(中央)。右は中曽根幹事長、左は灘尾総務会長、松野政調会長=毎日新聞社提供

台湾との間には、日台航空路線復活という懸案があり、椎名は新聞や中国の目ばかりを気にする三木の政治手法に強い違和感を持つようになった。椎名は三木政権に二つの注文をつけた。外交面では「デタント(緊張緩和)呆け」という言葉を使い、緊張緩和の安易なムードに流されず、米国との関係を固め、韓国、台湾にも十分に目を配るよう求めた。また、党改革、党近代化を着実に進めるよう進言した。

椎名は「三木政権生みの親」と言われ、「椎名院政」という言葉が生まれるほど、三木政権に強い影響力を持った。椎名と三木は政治資金規正法改正問題でも対立した。三木首相が企業献金全廃を打ち出したからである。椎名の党改革の方向は献金を党に集中させ、選挙も党が主体となる「党営選挙」をめざし、その前提として小選挙区制の導入を考えていた。三木首相が当時の「企業批判」の風潮に乗って企業献金の全廃を打ち出したのは、椎名の目からは「安易な世論迎合」と映った。

三木首相が打ち出した独禁法改正問題も椎名の逆鱗(げきりん)に触れた。三木首相は独禁法改正で企業分割の条項を入れることにこだわったが、これも椎名の目には、企業批判の風潮に便乗した大衆迎合、世論迎合と映った。独禁法改正案は土光敏夫経団連会長を先頭にした財界や通産省の強い反対で内容が骨抜きにされ、国会では参議院で廃案となった。椎名は自民党にはあまり相談せず、新聞世論や野党を味方にして事を進めようとする三木首相の政治手法に批判を強め、「三木政権の生みの親であっても、育ての親になると言った覚えはない」と突き放すようになった。

三木首相は「生みの親」である椎名への恩義と影響力を考慮して特に外交面では本来のハト派色を封印し、韓国の朴正熙政権との間では金大中問題の沈静化に努め、中国との平和条約締結交渉でも中国が主張する覇権条項には強く抵抗した。自民党内タカ派に配慮して昭和50年8月15日には首相として戦後初めて靖国神社にも参拝した。そうした努力にもかかわらず、院政気取りで首相批判を続ける椎名の存在は三木にとって次第に鬱陶しいものになった。

椎名のもとには連日のように田中派をはじめ各派の議員が押しかけ、口々に三木の政治手法への違和感を訴えた。それは暗に「椎名裁定は誤りだったのではないか」というニュアンスが込められていた。そうした声がますます椎名を三木批判に駆り立て、両者の関係は冷却化の一途をたどった。 1976年(昭和51年)2月5日、驚くべき事件の第一報が米国から飛び込んできた。米国上院外交委多国籍企業小委員会の公聴会証言で、航空機売り込みのためロッキード社から児玉誉士夫、小佐野賢治、丸紅を通じて多額の工作資金が日本政府高官に流れたことが明るみにでた。政界は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

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