国会を去る最長老 84歳・草川氏が見た「自公15年」
引退議員に聞く
非学会員として初の議員に

――政治家になる前は造船所で溶接工として働き、労組活動に参加していました。
「旧制の工業学校を卒業したのが1945年の終戦の年。みんな栄養失調、飢餓状態という時代だった。職もなく歩いていたら名古屋造船(現・IHI)の看板に『白米一合二尺支給』と書いてある。『ご飯が出るんだ。よし、この会社に入るぞ』と、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、白米にひかれて造船所に入った」
「当時の造船所は労働が本当に厳しく、中型の貨物船を1隻つくるのに1~2人の死亡事故があった。その時にちょうど共産党系の労働組合ができて青空団体交渉というのをやっていた。屋外で、我々の見ている前で労組の幹部が『社長は労働者を搾取するのか』と会社をやっつけるわけだ。労組はすごい、と思っていたら50年にレッドパージがあって共産党系幹部が誰もいなくなった。そこで青年で威勢のいい私たちが肩代わりしていく」
――そこから政治に入っていくわけですね。
「組合運動だけでは労働条件の改善には限界がある。年金や健康保険、税金といった問題には政治行動が必要と分かり、政治に関心が向いた。当時は日本社会党が非常に強い時代で、私も社会党に入党した」
――公明党との関係は。
「公明党側が声をかけてきた。当時は社会、民社両党との社公民で政権をめざしていた時代。『創価学会員だけの党では幅が狭い。とくに労働界から人材を投入したい』という話だった。それで旧愛知2区から出ることになる。公明党だけでは票が足りないので、私が無所属のまま推薦を受け、労働界の票と合わせて76年に初当選した。公明党では学会員以外で初の国会議員として注目された。17年間は入党せず、無所属のまま公明党・国民会議という院内会派を組んでいた」
――野党議員として厳しい追及で名を上げます。
「最初は社会労働委員会、その後は花形の予算委員会でずっと活動させてもらった。今でこそ薬価差益問題は指摘されなくなったが、90年代から『差益をなくそう、後発医薬品(ジェネリック)を高く評価すべきだ』と取り上げてきた」
――豊田商事事件も国会質問から社会問題になりました。
「大きな問題になるまで1年ぐらいかかった。悪徳商法の相談が地元の事務所に来たのが始まり。国会で質問をして問題になると雪だるま式に情報が入ってくる。被害者だけでなく、豊田商事の社員からも、生のネタ、データがいっぱい集まってくる」
「当時は新聞や週刊誌のネタで質問をしたことは一回もない。そういう質問は恥ずかしいと思っていた。私の質問を聞いて新聞社の社会部記者が来て翌日の朝刊で報道する。それを見た週刊誌が『ぜひわが社でも』と言って来る。それが野党議員としての私の国会質問の基本だった」
自ら人脈をたどり飯島氏に接近

――野党時代を経て93年、公明党は細川護熙首相の連立政権に参加し、その後は新進党に合流します。
「細川内閣のときは予算委の理事だった。細川さんが東京佐川急便から1億円借りた疑惑を当時の野党・自民党が徹底的に追及した。私は細川さんを一生懸命守る立場で、自民党の野中広務さんとは敵対関係だった」
「その後、我々は小沢一郎さんと新進党をつくったが、運営は極めて非民主的だった。私はよくかみついたよ。97年2月の両院議員総会では、オレンジ共済組合事件を巡って『小沢党首は辞めてもらいたい。責任を取れ。新メンバーで出直すべきだ』とまで言った」
「そうしたら、その日の夜に野中さんから突然電話があり『お前は偉いやつだ。小沢に面と向かって辞めろといったのはお前が初めてだ』と。それから急速に野中さんと親しくなった。予算委で対峙した相手が『たいしたもんだ』と認めるわけだ。劇画じゃないけど、番長同士がケンカした後、夕日を見つめながら認めあう、男と男の友情みたいなものが芽生えた」
――99年に自自公連立政権に参加します。前年の金融国会が転機となりました。
「当時は国対委員長で、まず手掛けたのは金融機関の破綻処理。その枠組みとなる金融再生法は、民主党と組んで政府・自民党に(法案を)丸のみさせるわけだが、やっぱり破綻前の予防が必要じゃないかという話になった。それには公的資金注入が欠かせないね、と。ところが民主党は公的資金に大反対。そこで自民党、自由党と組む流れになる。金融早期健全化法だね」
「自民党の古賀(誠)さん、自由党の二階(俊博)さんとは国対だんご3兄弟なんて呼ばれた。3人で呼吸を合わせて国会運営に臨んだので、かなり強かった。私は『国対委員長の在職中はテレビ出演はやめよう』と提案した。同じ党じゃないのだから(他党に)違いを突かれて亀裂を生む。3国対時代は1回も出なかった」
――2000年の衆院選落選を経て、小泉純一郎首相誕生後の01年参院選で国政に復帰します。
「国会に戻ってみると小泉さんと公明党にパイプがないことが分かった。当時の党代表、神崎(武法)さんは自由にやらせてくれたから、自分で勝手に何とかしようと考えて、共通の知り合いの官僚のツテで首相秘書官の飯島勲さんに近づき、意気投合した。小泉政権時代、平日朝はほぼ毎日、国会近くの赤坂プリンスホテルのポトマック(喫茶)で飯島さんと会って情報交換していた」
――小泉氏は公明党をどうみていたのでしょうか。
「公明党の会合に呼ぶと、本当に心から歓迎されるわけだ。拍手1つからもそれが分かる。それで小泉さんはすっかり感心して『これからも公明党の会合にはぜひ呼んでくれ』と。私は『みんな心からの気持ちで参加している。だから公明党には嘘をつかず、本当のことを言って下さい。自民党から公明党に5票しか出せないなら、5票だけと言ってほしい』と言った。信頼関係はそういう積み重ねだ」
――その後の安倍、福田、麻生政権での思い出はありますか。
「麻生政権の時には私たち裏方は、早期解散を求めて頑張った。(08年の)一時は『年内解散を約束する』という話になったが、結局時機を逃して衆院選に大敗した。いい思い出はないね」
情に厚い野中氏、率直だった小泉氏

――創価学会員ではない公明党議員として活動しにくかった面は。
「それはなかった。小沢さんとケンカしたときも、よく『創価学会の了解を得たのか』などと聞かれたが、学会からは『やめろ』も『頑張れ』も何もなかったよ」
――非学会員として公明党をどう見ていましたか。
「初めて公明党の集会に行ったとき、強いカルチャーショックを受けた。日曜なのに100、200人と大勢の人が集まる。『弁当か日当が出るんですか』と聞いたら、みんなに笑われた。労組が日曜日に集会をするなら日当と弁当は当たり前の時代。私のつたない話にメモまでとってくれる。ありがたいことですよ。自民党も応援を受ければ、1小選挙区あたり2万票は上積みされる。そうした応援に、庶民のための政治でこたえていく。これが定着すれば、本当に日本は良くなる」
――最近の公明党をどう見ますか。
「公明党に限らず、最近はほとんどの議員が高学歴で高資格者。非常にいいことだが、庶民の代表という感じは乏しくなったかもしれない。ただ、そういう人が現場の労働者や本当の庶民の声なき声、小さな声をしっかり聞いて、政治に反映していくなら鬼に金棒になる」
「いまの政治家は現場を知らない。昔は専門分野を持つ人がいた。国鉄の労組出身や炭鉱で働いていた人、鉄鋼、造船、農家など与野党それぞれに色々な政治家がいた。安全保障の専門家は野党の社会党にもいたし、この分野で公明党なら市川雄一さん(元書記長)がすごかった。とにかく勉強家。読書量も半端じゃなかった」
――議員生活で最も印象に残った政治家はどなたですか。
「タイプは全く違うが、やはり野中さんと小泉さんだね。野中さんは情に厚く、礼儀を重んじる人。一方の小泉さんは率直に話ができる人だった。野中さんは(00年の)衆院選で私が落選した際にテレビの中継で『草川さんとか、大事な人を落としてしまった』と名前を出してくれた。翌年、私が出た参院選から比例代表も個人名で投票できるようになった。後日、野中さんが言ったよ。『草川さん、あんたに入れたよ』。自民党幹事長まで務めた人にもかかわらず、だよ。そういう人だった」
「今でも野中さんとはよく会って意見交換している。先日も旭道山(=元力士で元衆院議員の旭道山和泰氏)の焼肉店で食事したんだが、2人で焼き肉なんてなかったことでしょ。私がせっせと焼いて、そのうちにカチカチになった肉がお皿に積みあがる。しばらくすると野中さんが『私はもう食べられんよ』と。悪いことをした」
――引退後はどう過ごされますか。政治活動は続けますか。
「これからは一野人。野人として、田舎から中央の政治を眺めますよ」
(聞き手は佐藤理、吉田修)
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