2019年2月24日(日)

政客列伝 松村謙三(1883~1971)

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周首相と会談、LT貿易に道筋 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三(7)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

(2/2ページ)
2012/4/15 7:00
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松村との会談で周首相は岸内閣に対する強い不信感を表明し「日米安保改定は日本の中国に対する侵略態勢である」と決めつけた。松村は「これまでの不平等条約を平等な形に改めるだけのことである。中ソ同盟条約にしても、中国は本心から日本と戦うつもりで締結したものではないと思う。日米安保もこれと同じようなものである」と反論した。また、周首相は岡村寧次元陸軍大将らが訪台して軍事指導にあたっていることを取り上げ「岸内閣が台湾独立運動を助けているのではないか」との疑念を表明したが、松村はこれについても強い態度で否定した。

松村謙三(中央)と陳毅外相(右)。左は廖承志(昭和34年)

松村謙三(中央)と陳毅外相(右)。左は廖承志(昭和34年)

松村と周首相との間に4回の会談を通じて信頼関係と友情が芽生えた。日本国内では反岸の急先鋒である松村は中国の岸内閣批判には決して同調しなかったが、「私たちの努力が足りない点は反省する」との態度を示した。周首相は「松村先生は日本の保守党の領袖であり、私は中国共産党の幹部である。意見がすべて一致するはずはありません」と述べ、立場の違いを乗り越え互いに協力して日中関係の打開をめざすことで一致した。

第1次松村訪中で具体的な取り決めはなかった。双方に岸内閣の下では抜本的な日中関係の改善は難しく、今回の訪中を基礎にして次期政権で前進を図るとの含みがあったためとみられる。1960年(昭和35年)6月、岸内閣は日米安保条約改定を成し遂げて退陣し、後継総裁には池田勇人、大野伴睦、石井光次郎、藤山愛一郎、松村謙三が名乗りを上げた。

総裁選投票日の直前、大野は出馬を辞退して石井への党人派連合の一本化を図った。松村もこれに応じて出馬を取りやめ、三木・松村派は石井支持を表明した。投票の結果は岸、佐藤両派の支持を得た池田が石井、藤山を破って圧勝した。池田と松村、三木は親密な関係にあり、三木・松村派の票の一部が池田陣営に流れたと臆測された。

1957年(昭和32年)1月
石橋首相特使としてアジア各国歴訪
同年
三木・松村派結成
1959年(昭和34年)1月
岸首相に対抗して総裁選に出馬
同年10月
第1次訪中、周恩来首相と会談
1962年(昭和37年)9月
第2次訪中、日中貿易拡大で合意
同年10月
高碕達之助訪中、LT貿易覚書調印
1964年(昭和39年)4月
第3次訪中、日中連絡事務所設置で合意、日中記者交換協定調印

池田内閣が発足すると、松村は池田首相と緊密な連絡をとり、日中関係改善のタイミングを慎重に見計らった。中国は大躍進計画が失敗に終わり、中ソ関係も悪化したので日中関係の改善を切実に必要としていた。昭和35年12月、松村の仲介で高碕達之助が訪中した。高碕は戦前、東洋製缶社長、満州重工業総裁、戦後は大日本水産会会長、鳩山内閣の経企庁長官、岸内閣の通産相を務めた実業家兼政治家で、人脈的には鳩山、河野に近かった。池田、松村とも良好な関係であった。

高碕訪中を踏まえて松村は1962年(昭和37年)9月、第2次訪中に出発した。池田首相とは事前に「ここまでは話してよい」「これ以上は深入りしない」と入念に打ち合わせた。第2次訪中には古井喜実、藤井勝志、田川誠一の3議員のほか、池田派の小川平二が同行した。第1次訪中とは異なり、今回は2週間の実務的な訪問である。

周首相と3回にわたって会談し、(1)日中貿易の拡大を図る(2)両国間に連絡機関を設ける、中国側は廖承志、日本側は適当な人を連絡責任者とする(3)中国側は化学肥料、農薬、小型農機具、化学繊維、優質鉄鋼の輸入を希望し、鉄鉱石、石炭、大豆、トウモロコシ、工業塩などの対日輸出を求める(4)貿易品目別にメーカーの集団を作る――などの合意項目が発表された。日本の大企業を巻き込んだ日中間の本格的な貿易再開の道が切り開かれた。

■日中関係の「総連絡役」に

松村の第2次訪中を受けて同年10月、高碕が訪中し、廖との間で「日中総合貿易に関する覚書」が調印された。この覚書では(1)覚書の有効期間を5年とする(2)5年間の平均輸出入取引の総額は約3600万英ポンドを目標とする(3)日本の対中輸出の一部の商品の延べ払い方法、プラントの分割払い方法については別途協議する――などが取り決められた。この覚書に基づく日中貿易は高碕と廖の頭文字をとって「LT貿易」と呼ばれた。

1964年(昭和39年)4月、松村は日中関係改善の総仕上げをめざして第3次訪中に出発した。古井と竹山が同行し、同年2月に死去した高碕に代わって高碕事務所代表になった岡崎嘉平太全日空社長が同行した。この訪中で高碕事務所と廖事務所をLT貿易の連絡事務所とすることが決まり、日中記者交換協定が結ばれた。松村は日中関係の「総連絡役」の立場になった。松村と岡崎は昭和35年、松村厚相時代の次官だった亀山孝一の選挙応援で知り合い、岡崎は日中関係に関する松村のアドバイザー的役割を果たした。

岡崎によると、対中プラント輸出に輸銀融資と延べ払いを認める条件として保証が問題となり、岡崎が日本側は松村、中国側は廖が保証人となる案をまとめて松村に提示すると、松村は「ちょっと待ちなさい。私は50年政治に関係していますが、いまだかつて営利に関係したことはない。その私を営利に巻き込むとは何事ですか。絶対に承知しません」と厳しい口調で語ったという。岡崎は松村について「驚くほど金に淡泊な政治家であることは他に例をみない」と述べている。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 松村謙三著「三代回顧録」(64年東洋経済新報社)
 松村正直編「花好月圓(松村謙三遺文抄)」(77年青林書院新社)
 田川誠一著「松村謙三と中国」(72年読売新聞社)
 木村時夫著「松村謙三(伝記編上下)」(99年桜田会)

※1枚目の写真は「松村謙三(伝記編上)」、2、3枚目は「花好月圓(松村謙三遺文抄)」から

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