政客列伝 松村謙三(1883~1971)

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周首相と会談、LT貿易に道筋 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三(7)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/4/15 7:00
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自民党結党直後の1956年(昭和31年)1月、次期総理・総裁が確実視されていた緒方竹虎が急死した。同年7月には保守合同の立役者だった三木武吉が死去した。鳩山一郎首相は日ソ国交回復、日本の国連加盟を実現して退陣し、同年12月に自民党総裁選挙が実施された。この総裁選に岸信介幹事長、石井光次郎総務会長、石橋湛山通産相の3人が立候補した。松村謙三は三木武夫と協力して石橋を支持した。

■三木・松村派結成、岸首相に対抗して総裁選出馬

当初、劣勢だった石橋陣営は石井陣営と2、3位連合を組み、決選投票で岸を破って総裁に当選した。三木が自民党幹事長となり、池田勇人が蔵相になって石橋政権の中枢を担った。松村は昭和31年末と32年の年頭、首相に就任して間もない石橋と2度会談した。この会談で松村は鳩山内閣の日ソ国交回復に続いて、石橋内閣が日中国交回復に取り組むよう進言し、松村自身が訪中したいとの希望を伝えた。

石橋首相は日中国交回復に前向きの姿勢を示したが、米国との調整が必要であるとして松村にまず首相特使としてアジア各国を歴訪するよう勧めた。松村は石橋首相の要請を受けて1月23日、側近の竹山祐太郎、秘書の田川誠一らを伴ってアジア各国歴訪の旅に出発した。羽田空港には重光葵、大麻唯男、川崎秀二、中曽根康弘ら旧改進党の同志が見送った。

イランを皮切りにイラク、パキスタン、インド、セイロン(現・スリランカ)、マレーシア、タイ、オーストラリア、ニュージーランド、インドネシアを回って帰国したのは3月5日である。イラン滞在中に前外相で改進党総裁だった重光の訃報に接した。重光は羽田で松村を見送る際、万歳三唱の音頭をとり、その直後に死去した。オーストラリアでは石橋首相の病気退陣のニュースを聞き、ニュージーランドでは長年、政治行動をともにしてきた大麻死去の知らせを受けた。

昭和31年12月の総裁選を契機に自民党では昭和32年にかけて派閥の形成が進行した。旧改進党系では石橋を支持した松村と三木が共同代表になって三木・松村派が結成された。このうち松村直系議員は竹山、古井喜実、笹山茂太郎、川崎らであった。岸を支持した大麻、野田武夫、宮沢胤勇、小泉純也、浜野清吾、中村庸一郎ら大麻派は岸派に合流した。北村徳太郎、中曽根康弘、園田直、桜内義雄、稲葉修ら北村派は河野派に吸収された。

石橋首相の後継となった岸首相は1958年(昭和33年)5月の総選挙で勝利を収めると日米安保条約の改定に向けて強気の政権運営に転じた。これに反発した池田、石井、三木・松村の反主流3派は同年末に池田国務相、灘尾弘吉文相、三木経企庁長官の3閣僚が辞任して岸政権を揺さぶった。危機に瀕(ひん)した岸首相はキャスティングボートを握る大野伴睦副総裁に「次の政権はあなたに譲る」との手形を切って局面打開を図った。

総裁選に出馬し、決起集会であいさつする松村謙三(左)。松村の正面は池田勇人、その右は三木武夫

総裁選に出馬し、決起集会であいさつする松村謙三(左)。松村の正面は池田勇人、その右は三木武夫

昭和34年1月の自民党総裁選は岸、佐藤、河野、大野の主流4派を固めた岸首相の再選が確実視され、反主流派は手詰まりに陥った。この時、反主流派の統一候補に推されて敢然と総裁選に出馬したのが松村である。秘書だった田川は次のように記している。「松村氏にすれば、勝敗は二の次。落選とわかっていても、なお立候補して岸総裁に反対する勢力のあることを満天下に誇示しなければ、党内の抵抗運動のスジが通らないし、これを契機にいままでの金権政治、国民の声を無視した権力政治に対する反省が少しでもおこれば、それで十分――と考えていたようだ」

総裁選出馬にあたって松村は記者団に「いまの自民党がともすれば金権や派閥の力によって政治をもてあそぶ傾向があることは保守党の墓穴を掘るものであり、私の深く憂うるところである。いまにしてこのような態度を正さねば、保守党と保守党による政治は国民から見放されるであろう。このような私の信念からいって、こんどの総裁選は勝敗にこだわらず、きわめて公明にしてかつ明朗に行きたい」と抱負を語った。総裁選は岸の圧勝に終わったが、松村は池田派、石井派、三木・松村派などの支援を得て166票を獲得して善戦した。

■池田首相との連携背景に訪中

岸内閣の時代に日中関係は悪化した。昭和32年の岸首相の台湾訪問に中国が反発、昭和33年には長崎国旗事件(長崎の中国展で中国国旗を引きずり下ろした右翼青年が処罰されずに釈放された事件)が起きて民間貿易も断絶した。こうした状況に危機感を抱いた前首相の石橋は1959年(昭和34年)9月、中国を訪問して周恩来首相と2回会談した。日中関係について領土主権の相互尊重など5原則と政経不可分の原則を確認し、関係改善をめざすとした共同声明が発表された。

この石橋訪中と連動する形で松村は同年10月、中国訪問に出発した。同行議員は竹山、井出一太郎、古井の3人。これに日本長期信用銀行常務の田林政吉が随行した。田林を推薦したのは池田である。池田と田林は京大時代から親交があった。同年7月の内閣改造で、それまで岸政権を支えてきた河野が下野し、反主流だった池田が通産相として入閣して「ポスト岸」の1番手に浮上した。松村は政権中枢にいる池田通産相と連携して本格的な貿易再開と日中関係改善を図ろうとした。

周恩来・中国首相(左)と松村謙三(昭和34年)

周恩来・中国首相(左)と松村謙三(昭和34年)

松村は郭沫若と廖承志を通じて中国との間にパイプを築いてきた。日本へ留学・亡命経験のある中国科学院院長の郭が昭和30年12月に日本学術会議の招きで来日した際に会い、意気投合して「一度ぜひ、新中国を見てください」と招請を受けていた。中日友好協会会長の廖は昭和32年12月に来日した際に、石橋邸で初めて会い、さらに松村が赤坂の料亭に廖を招いてじっくり話し込んだ。松村の訪中は「都合のよい時期にいつでも来訪されたい」との周首相の招請状が廖から届いたからである。

松村一行は中国で至れり尽くせりの歓待を受けた。1カ月半滞在し、北京、広州、上海、武漢、杭州、西安、洛陽、蘭州、成都、重慶、昆明などを見て回った。この間、周首相と4回会談し、全人代常務委員長の朱徳元帥、陳毅副首相・外相ら要人、郭、廖ら対日関係当局者とも懇談を重ねた。

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