2019年1月20日(日)

政客列伝 前尾繁三郎(1905~1981)

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造幣局長に左遷、政界出馬を決意 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎(1)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

2011/11/13 7:00
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前尾繁三郎

前尾繁三郎

前尾繁三郎(1905~1981)は戦前の大蔵省時代から池田勇人の弟分であり、戦後政界入りしてからは池田の右腕となり、池田政権時代は自民党幹事長として首相を支え続けた。池田の死後、派閥を継承して第2代宏池会会長となったが、病弱なこともあり首相となる志は果たせなかった。政界きっての教養人であり、晩年は衆議院議長として存在感を発揮した。

■宮津中学から一高・東大に

前尾繁三郎は1905年(明治38年)、天橋立に近い京都府宮津の貧しい瀬戸物屋の3男に生まれた。前尾の2人の兄はいずれも高等小学校を卒業すると奉公に出た。後に長兄は苦学して弁護士となり、地元で開業した。前尾は小学校の成績がよく、担任だった西垣延二という教師が前尾の両親を説得し「学費が足りなければ自分が援助する」とまで言ってくれたので、宮津中学に進学できた。前尾は後に「大阪に丁稚奉公にやられるべき運命だったのに、西垣先生のおかげで宮津中学に進学でき、一高・東大へのコースをたどることができた」と述べている。

小学校時代から異常なほどの読書好きで中学に入ってからも小説などを片っ端から読みふけった。また音楽好きで友人から借りたバイオリンを独学で弾きこなせるようになり、中学時代はブラスバンドに入ってバリトン・チューバを吹いた。中学4年修了の際に上京して一高の試験を受けたが失敗して郷里に戻り、本格的な受験準備をして宮津中学を卒業し、再び一高を受験して見事に合格した。

一高時代の前尾繁三郎(柱の右)

一高時代の前尾繁三郎(柱の右)

1923年(大正12年)、前尾は一高に入学した。学資は地元の医師2人の援助を受けた。都会の一高生活は「開放的で愉快」であり、寮生活も快適であった。哲学書を読みふけり、よく食べ、よく飲み、よく遊んだ。「食堂では皆よく食べた。夕食は土曜日が豚汁、日曜日は豚飯と定まっていたが、私なぞは汁12杯、飯7杯などの記録を作って、マーゲン(胃)のあだ名をもらった」。酒も強く、寮仲間と飲む時はいつも酔いつぶれた友人の介抱役であった。

一高のクラスの席順は前の方から成績順で並んでおり、前尾は3年間を通じて最後列の3番目だった。一高を卒業して東大法学部に進学した。一高時代は青春を満喫したが、大学時代は「高等文官試験の予備校みたいなもの」と割り切り、法律を猛勉強した。その結果、成績は急上昇し、高文試験の行政科にも好成績で合格し、司法科にも合格した。

■福田赳夫と大蔵省同期入省

大蔵省の採用面接試験の控室では福田赳夫と一緒だった。ピカピカの秀才である福田は「前尾、今日は大蔵省にどういう局があるか(面接官が)聞くよ。主計局、理財局、銀行局、主税局と4つあるんだ」と教えてくれた。どこかもっさりしている前尾は全然知らなかったが、果たして試験場に入ると真っ先にそれを聞かれた。「そんなことは入ればすぐわかることだし、そんな野暮なことは聞くまいと聞き流していたので、今聞いた名前が出てこない。かろうじて主計局と銀行局とだけ答えると、どうして知ったかの質問、今教えてもらったばっかりとも言えないので、新聞によく出ていますからとごまかした」。

和歌山税務署長時代の前尾繁三郎(手前)。右端は池田勇人

和歌山税務署長時代の前尾繁三郎(手前)。右端は池田勇人

こうして前尾は1929年(昭和4年)、福田らとともに大蔵省に入省した。最初の配属先は4つある局のどれでもない預金部であった。入省2年目の昭和5年11月、前尾は風邪で高熱を出し、異常に肩がこるので順天堂病院で診察を受けたら湿性肋膜(ろくまく)炎と診断され、入院した。微熱になったものの肋膜に水がたまる症状は一向に改善されなかった。見舞客からは「飲んだ酒がみな肋膜にたまるのだろう」と冷やかされたが、入院半年して治るあてもないまま長期療養のため帰郷した。

宮津に帰ると熱はなくなった。しかし、水がたまる症状は相変わらずで、1年間の休職期間が過ぎて大蔵省を退職になってしまった。「人の世話になって学校を卒業して、働いたのもつかの間、闘病にあたら若き日を空費しなければならないのは耐え難い苦痛だった」と後に振り返っている。1期後輩で預金部の同僚だった渡辺武(後にアジア開発銀行総裁)が奈良税務署長をしていると聞いて奈良に行き、渡辺に「税務署の小使いに雇ってくれ」と頼み込んだが、「先輩のあなたを小使いにつかうわけにはいかない」と断られたこともあった。

■病気・復職の池田勇人と意気投合

1934年(昭和9年)4月、前尾は病状が落ち着いたので上京して大蔵省に顔を出した。かつての同僚はみな「そこまでよくなっているなら復職しろ」と勧めてくれた。そこで当時の秘書課長に相談に行くと「5年も遊んだものは将来人事の上で困るから」と断られた。ところが、数日後、その秘書課長が帝人事件で召還され、後任の秘書課長・石渡荘太郎(後に蔵相)に会うと復職を認めてくれた。同年6月、前尾は和歌山税務署長に赴任した。

主税局長時代の前尾繁三郎

主税局長時代の前尾繁三郎

翌年4月、大阪の玉造税務署長だった池田勇人が和歌浦に遊びに来た。池田は宇都宮税務署長時代に全身の皮膚から膿が吹き出す奇病を発症して前尾と同様、長期療養を強いられ、大蔵省を退職になった。いったんは日立製作所への就職が決まっていたが、たまたま大蔵省に電話すると「前尾も復職したのだから、君も復職したらどうか」と勧められて復職した経緯があった。

前尾は「あなたが池田さんですか。私も病気で休んでいた前尾です。きょうは別席を設けましたから2人で飲みませんか」と池田を誘った。池田は前尾より入省年次は4期先輩、6歳年長だった。初対面であったが、大病で休職して出世が遅れた者同士だったので、夜を徹して飲むほどに、酔うほどに意気投合した。「おれは主税局長になる。おまえは国税課長になれ」「よし、君は主税局長になれ。僕は国税課長をやるから」と互いに誓い合う仲になった。

和歌山税務署長時代の2年間で前尾の体調は回復し、肋膜に水もたまらなくなった。その後、名古屋税務監督局の間税部長、直税部長を経て、昭和13年、大阪の直税部長になった。大阪時代に前尾は周囲の勧めで塩崎静子と見合い結婚をした。静子夫人の実家は塩崎汽船という会社を営む西宮の素封家だった。甲子園ホテルで両家の家族だけの簡素な結婚式を挙げた。新婚旅行には行かず、式の翌日も普段通り役所に出勤した。すでに34歳になろうとしていた。

1940年(昭和15年)7月、東京税務監督局の直税部長となり、世田谷の松原3丁目の借家に居を構えた。偶然、池田勇人も100メートルほどの近所に引っ越してきた。池田と前尾は連れだって連日連夜、飲み明かした。築地や赤坂の料理屋、そうでないときは互いの家で一升瓶を1本ずつ明ける日々が続いた。

池田は当時、主税局の経理課長だったが、やがて国税課長となり、「なった、なった」と前尾に電話してきた。「後年彼が大臣や総理になったときにもこれほど喜んだのを見たことはなかった」と前尾は述べている。1942年(昭和17年)9月、前尾はインドネシア・セレベス島のマカッサルに司政官として赴任した。民政府の総監には内務省の山崎巌(後の内相、自治相)が赴任してきた。ここで2人は親密になった。

■主税局長に就任、GHQに抵抗

昭和19年4月、東京財務局長の池田から「主税局の国税第二課長のポストが空いたからすぐ帰れ」との連絡があった。長い間、田舎回りばかりしてきた前尾にとって本省に戻る絶好の機会であった。同年5月に帰国して国税第二課長に就任した。昭和20年4月、小磯国昭内閣から鈴木貫太郎内閣となり、池田が主税局長、前尾が国税第一課長となり、10年前の和歌山での誓いが実現した。同年8月15日、前尾は大蔵省内で玉音放送を聞き、大蔵省の全職員が徒歩で宮城前広場に出向いておわびの最敬礼をした。

▼官僚時代までの歩み
1905年(明治38年)
京都府宮津に生まれる
1923年(大正12年)
一高に入学
1929年(昭和4年)
東大法学部卒業、大蔵省入省
1934年(昭和9年)
大蔵省に復職、和歌山税務署長
1935年(昭和10年)4月
復職した池田勇人と意気投合
1945年(昭和20年)2月
主税局国税第1課長
1947年(昭和22年)2月
大蔵省主税局長
同年12月
大蔵省造幣局に左遷

占領下で東久邇内閣、幣原内閣に続いて吉田内閣が発足した。1947年(昭和22年)2月、吉田内閣の石橋湛山蔵相の下で池田が大蔵次官となり、前尾は主税局長になった。主計局長は福田である。病気で大きく出遅れた前尾は同期のトップを走り続けてきた福田とついに肩を並べるまでになった。この直後に石橋は公職追放になり、同年4月の総選挙の結果、片山哲を首相とする社会、民主、国協3党連立内閣が発足した。

主税局長になった前尾に対してGHQ(連合国軍総司令部)は税制や徴税のあり方についてさまざまな要求を突きつけてきた。日本の実情に合わないものが多く、特に予定申告納税制度や割当課税に前尾は強く抵抗した。GHQに抵抗すれば飛ばされることは分かっていたが、前尾は「私一人くらいは犠牲になって進駐軍に反省を促すのもいい」と覚悟した。1947年(昭和22年)12月、片山内閣の栗栖赳夫蔵相はGHQに呼び出され、主税局長更迭を要求された。

栗栖蔵相は次官の池田を通じて前尾に大阪の造幣局長に行くよう伝えた。前尾はこの話を即座に断った。池田に「このまま男らしく辞めさせてほしい。どうせ選挙も近々あるようだし、それに自分は出ようと思う。役人なら辞令一本で飛ばされる。国会議員なら選挙区の人々の信頼をつなげば簡単に飛ばされることはないであろう。選挙に出るためにぜひ辞めさせてもらいたい」と言い切った。

前尾は2、3日後に池田の自宅に呼び出された。そこには森永貞一郎秘書課長(後の日銀総裁)も同席していた。森永は「今あなたが造幣局長に行かずに退官されては総司令部に面当てになって、今後大蔵省が総司令部と交渉するのに非常な障害になるから、この際は翻意して3日でもよいから造幣局長に行ってもらいたい」と説得した。池田も「前尾、仕方がない。行ってくれ。そのうち2人で(政治を)やろう」と言った。前尾にとっては屈辱的な左遷であったが、池田や同僚を困らせるのは本意ではないのでしぶしぶ大阪行きを了承した。

GHQと前尾の折衝の通訳は宮沢喜一が担当したので、宮沢は「私の通訳がまずかったので、こんなことになってしまって」と申し訳なさそうな顔をした。前尾は「そんなことはない。どうか心配しないように」と宮沢の心遣いに感謝した。昭和23年正月、前尾はほとんど見送る人もなく、大阪に赴任した。同年10月、昭電事件で芦田内閣が総辞職し、11月には前首相の芦田均が収賄容疑で逮捕・収監された。芦田と同じ京都第2区から出馬の機会をうかがっていた前尾は「政界浄化」を旗印に出馬するには絶好の機会と考え、民主自由党からの出馬を決意した。=敬称略

(続く)

 主な参考文献
 前尾繁三郎著「私の履歴書・牛の歩み」(74年日本経済新聞社)
 前尾繁三郎著「政治家のつれづれ草」(67年誠文堂新光社)
 前尾繁三郎著「政治家の歳時記」(60年誠文堂新光社)
 前尾繁三郎著「政の心」(74年毎日新聞社)

※写真は前尾繁三郎著「私の履歴書・牛の歩み」から

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