2019年9月18日(水)

政客列伝 金丸信(1914~1996)

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 日経電子版(Web刊)では、首相になれなかった、もしくはならなかったものの個性的で存在感あふれた戦前戦後の大物政治家の軌跡を紹介する「政客列伝」を掲載しています。今回のシリーズでは竹下派の全盛時代に「政界のドン」と呼ばれ、時の首相を凌駕(りょうが)する権勢を誇った金丸信氏の生涯を振り返ります。

保利茂に師事、田中内閣実現に奔走 「政界のドン」金丸信(3)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

(3/3ページ)
2011/8/14 12:00
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■第2次田中内閣で初入閣

1972年(昭和47年)7月の自民党総裁選で、金丸は福田支持の佐藤首相、保利幹事長の意に反して田中支持の先頭に立って奮戦した。保利には「国会議員になって以来、田中角栄を総理にしたい、そういう願いを込めて選挙区でも訴えてきた。誠に申し訳ないが、わたしは田中をやりますからお許しをいただきたい」と仁義を切った。保利は「キミから先にそれを言われてしまえば、君を説得する方法はない。わかった。田中のために命がけでやれ」と言うだけだった。

改築中の迎賓館を視察する田中首相(手前)と金丸建設相

改築中の迎賓館を視察する田中首相(手前)と金丸建設相

金丸は田中陣営の本部があるホテルニューオータニに1カ月間、泊まり込んで多数派工作に奔走した。金丸は三木派幹部の毛利松平と連絡をとり、田中と三木武夫の会談をセットした。総裁選で三木の勝ち目はなかったが、三木は日中国交回復に強い意欲を持っていた。毛利は慶応柔道部出身の猛者で金丸とは学生時代から親しく、親台湾派の急先鋒だった。金丸も親台湾派である。その金丸が毛利を通じて三木派に「田中は日中国交回復をやるから決選投票では田中に協力してほしい」と働きかけた。

三木は毛利を伴って田中と金丸が待つ九段のホテルグランドパレスの一室に入ると、立ったまま「田中君、日中問題はどうする」と切り出した。田中は「まあ、まあ」と口を濁した。三木は「まあまあじゃない。それがはっきりしなければ、わたしはここに座るわけにはいかん」と厳しい口調だった。そこへ金丸が口を挟んだ。

「三木先生、田中がここまで出てきて、あなたをここまでお招きしたのは、あなたの言うことも聞くし、日中国交回復もやる。こんな、あなたの考えを聞かないで選挙になりますか。さっ、三木先生、座ってください。もし、田中がそれでも駄目だと言うときには、わたしも覚悟します。田中派を出て三木派に入ります。これだけの約束をしますが、どうですか」。金丸の言葉を聞いて三木はようやく腰を下ろした。こうして田中・三木の提携が実現した。

7月5日の自民党総裁選で田中角栄156票、福田赳夫150票、大平正芳101票、三木武夫69票。決選投票で田中が福田を破り、田中政権が実現した。しかし、第1回投票の田中票は金丸らの票読みより、かなり少なく、福田との差はわずか6票だった。田中陣営からカネをもらいながら投票しなかった連中が多数いたことに金丸は愕然(がくぜん)とした。

金丸は田中から「田中内閣ができた暁には、君を建設大臣にする」というお墨付きをもらっていた。しかし、組閣になると「元帥」と呼ばれた田中派のベテラン・木村武雄が「大臣にならないと次の選挙が危ない。どうしても大臣にしてくれ」と激しい運動を展開したため、金丸の初入閣は見送られ、国対委員長に留任した。昭和47年12月の総選挙後の第2次田中内閣で金丸はようやく建設大臣となり、念願の初入閣を果たした。当選6回、58歳だった。=敬称略(続く)

 主な参考文献
 金丸信著「私の履歴書 立ち技寝技」(88年日本経済新聞社)
 金丸信著「人は城・人は石垣・人は堀」(83年エール出版社)
 「人間金丸信の生涯」刊行記念会編著「人間金丸信の生涯」(09年山梨新報社制作)
 竹下登著「証言 保守政権」(91年読売新聞社)

※2枚目の写真は「私の履歴書 立ち技寝技」より

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