政客列伝 松野鶴平(1883~1962)

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原敬内閣の総選挙で初当選 「吉田茂を引き出した男」松野鶴平(1)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕

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2012/5/13 7:00
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松野鶴平(1883~1962年)は戦前からの長い政治歴を持ち、政党実務に精通した練達の政治家である。吉田茂を首相の座に引き出した人物として知られ、佐藤栄作を吉田に推薦して世に送り出した人物でもある。巧みな政界遊泳術で「松野ズル平」とも呼ばれたが、閣僚になったのは戦前の1回だけで、戦後は政界の舞台回し役に徹し、晩年は参議院議長を務めた。

■学校中退し酒造業・米の仲買人に

松野鶴平(参議院議長時代)

松野鶴平(参議院議長時代)

松野鶴平は明治16年12月、熊本県菊池郡城北村(後に鹿本郡菊鹿町、現山鹿市)に中農の長男として生まれた。父・長八は農業を営む傍ら馬の仲買人をしていたが、鶴平が生まれて間もなく、農業に見切りをつけて造り酒屋を始めた。鶴平少年は家業の酒造業を手伝いながら地元の木野小学校に通った。小太りでいつもニコニコしているおとなしい少年だったという。

当時は初等小学校を4年で卒業すると高等小学校に行くのが普通だが、城北村には高等小学校がなかった。鶴平少年は父親の勧めで近隣の鹿本郡来民町(後の鹿本町、現山鹿市)にあった私立の城北学館に進学した。熊本は国権派と民権派の政争の激しい県である。城北学館は鹿本地方の民権派が設立した学校だった。父親の長八もこの地方の民権運動に参加していた。

国権派と民権派の対立は幕末の細川藩の学校党と実学党の対立から始まっている。藩校・時習館出身の中堅藩士らが佐々友房を首領として結成したのが国権党である。その背後には藩閥政府の井上毅がいた。坂本龍馬に大きな影響を与えた横井小楠の系譜を引く実学党は山田武甫、嘉悦氏房らが中心となり、やがて民権結社「相愛社」の宗像政、松山守善らが加わって民権派となったが、県内では国権党が圧倒的に優勢であった。その国権党が熊本市に設立した学校が済々黌である。

城北学館は高等小学校にあたる予科4年と尋常中学校にあたる本科3年があったが、学校の運営は資金不足で苦しかった。そこへ鹿本地方に済々黌の分校ができることになり、そこに吸収される形で城北学館は廃校になった。それと同時に松野鶴平は学業をあきらめて中退となった。松野の夢は東京に遊学して弁護士の資格をとり、将来は政治家になることだったが、父親に「弁護士のなり損ないは使いものにならない」と強く反対されたため、学業に身を入れることはなかった。

1883年(明治16年)12月
熊本県菊池郡城北村に生まれる
1896年(明治29年)3月
城北学館中退、家業の酒造業と米の仲買に従事
1905年(明治38年)3月
久留米歩兵第56連隊に応召
1908年(明治41年)8月
野田タキノと結婚
1910年(明治43年)
政友会熊本支部に入る
1919年(大正8年)8月
衆議院熊本選挙区補欠選挙に政友会から出馬して惜敗
1920年(大正9年)5月
総選挙に熊本4区から出馬し、無投票で初当選

後に松野は「酒造業は灘などのように名前が通るようになれば別だが、地方の片田舎での営業は、なかなか波があってむずかしい。私の家もご多分にもれず、どんともうかったかと思うと、バッタリといけなくなったりして、とにかく浮き沈みが激しかった。だから小学校を出て中学校に入ったけれども、家業の方が気がかりで仕方がなかった。(中略)家業をつぶしては困るから私も小さいながらよく働いたものである。学校はどうせ中途半端な通学しかできないのなら、いっそやめてしまえ、と思って中途で退学してしまった。そして、それからはもっぱら家業に励むことになったのである。これが私の社会へ出た第一歩である」と記している。

松野は家業の酒造業に精を出す傍ら、酒造米の買い付けで得た知識をもとに米の仲買人となり、熊本、門司、福岡などを飛び回った。近所にあった水車を使った大がかりな精米機を買い取って精米業にも乗り出し、折からの日露戦争需要で大きな利益を上げるなど、実業の才を発揮した。1904年(明治37年)8月、松野は徴兵検査で乙種合格となり、歩兵補充兵役に編入された。戦争が長引けば応召の可能性があったので松野の両親は長男の鶴平を同じ村の娘と結婚させた。

この最初の結婚はうまくいかなかった。松野は翌年3月、久留米の歩兵第56連隊に応召となった。久留米連隊の本隊は満州に出動しており、松野は留守部隊の補充兵であった。久留米に入営中に最初の妻と離縁の手続きをとり、明治39年3月に召集解除となって城北村に帰郷した。この間、好調だった精米業を知人に委託していたが、松野の入営中に大きな赤字を出し、松野は負債を抱えることになった。

■野田卯太郎の娘婿に

もともと性格が明るく、精力的な松野は借金にもめげずに仕事に励み、米の仲買人として飛び回った。そうした中、1908年(明治41年)8月、松野は福岡県選出の政友会代議士・野田卯太郎の娘・タキノと結婚した。24歳である。野田の実家は松野の実家と県境を隔てた福岡県三池郡岩田村(現みやま市)にあり、野田が代議士になってからもシゲ夫人が豆腐屋を営んでいた。松野が野田家に出入りしているうちにシゲ夫人のお気に入りとなり、タキノとの結婚に進んだとされる。

九州の民権派は九州改進党、九州同志会を経て板垣退助の自由党に合流し、自由党は憲政党を経て伊藤博文の政友会になだれ込んだ。野田卯太郎は九州政友会では佐賀の松田正久、鹿児島の長谷場純孝、大分の元田肇に次ぐ有力者で、明治45年3月には政友会幹事長になった。原敬の側近となり、山県有朋の有力側近である熊本出身の清浦奎吾と親しく、山県・清浦と原を結ぶ重要なパイプ役を務めた。原敬政友会内閣ができると逓信大臣に起用された。政界の有力者・野田の娘婿になったことで松野の運命は大きく切り開かれた。

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