日米外交60年の瞬間 第4部

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吉田茂が葉巻解禁したわけ 帰ってきた日本(19)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

2013/1/12 7:00
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講和条約と日米安全保障条約への署名によって、サンフランシスコでの吉田茂首相の仕事は終わった。1951年9月9日、吉田は外務省の随員たちと上機嫌で昼食をとり、断っていた葉巻をくゆらせた(高坂正堯「宰相吉田茂論」)。

■「戦争に負け、外交に勝つ」

吉田といえば葉巻をくゆらす写真で知られる。が、サンフランシスコでの講和実現まではそれを断っていた。

葉巻をくゆらす吉田茂首相=毎日新聞社提供

葉巻をくゆらす吉田茂首相=毎日新聞社提供

当時の報道によれば、葉巻解禁は、米首席全権だったアチソン国務長官がきっかけだった。アチソンが「もういいだろう」と上等なハバナ1箱をプレゼントした。

葉巻を手にした吉田はカメラマンに向かって笑顔をみせた。そして「ウイスキーも少しは」とアルコールも解禁した。

「君たちはよくやった。自分が若いころパリ平和会議に行ったときよりも、君たちの活躍の方が上だ」

吉田は随員たちにこう語った。

高坂によれば、吉田は第1次世界大戦の戦勝国として参加したパリ平和会議と敗戦国として臨んだサンフランシスコ会議とを比べていた。それにしてはよくやった、そんな安堵が葉巻の解禁につながった。

吉田の有名な言葉に「戦争で負けて外交で勝った歴史はある」がある。高坂によれば、1946年の首相就任時に医師の武見太郎(後に日本医師会長。武見敬三参院議員の実父)に語ったらしい。

サンフランシスコの結果は、吉田に5年前の台詞(せりふ)を思い出させたのかもしれない。

元日本医師会長の武見太郎氏

元日本医師会長の武見太郎氏

吉田と武見は浅からぬ縁がある。

武見は吉田の岳父、牧野伸顕の孫婿であり、その後の昭和の保守政界に影響力を持った。「ケンカ太郎」「武見天皇」などと呼ばれたが、何かしら吉田のイメージとも重なる。

武見の娘、和子は吉田の娘、麻生和子と同名であり、麻生和子の息子で元首相の麻生太郎の弟である麻生泰に嫁いだ。

ややこしくなるが、だから武見の娘は、いまは麻生和子である。和子の実弟が武見敬三だ。

敬三はもともと国際政治学者であり、外交問題の論客である。1951年11月5日、サンフランシスコ講和の2カ月後に生をうけた。

さて高揚感は吉田だけではない。記者たちも同じだった。

日経の大軒順三、木原健男両記者は連名で「講和会議を顧みて」と題するまとめの原稿を書いた。主見だしは「米国外交の完勝」と大軒らしく歯切れがいい。「アジア諸国揺るがず」「ソ連の思惑水泡に帰す」と合わせての3本の見出しから内容はわかる。

大軒、木原はここで「今回の会議を支配したのは強い反共の空気であった」と書く。次の部分は日米同盟という言葉が当たり前になった感のある2013年に読み返しても、なお歴史に耐える指摘である。

「冒頭行われたトルーマン大統領の演説を熟読するものはそこに米国人の日本人に対する強い要求を見出すであろう。それは太平洋の安全保障に果たすべき日本の役割であり日米安全保障条約の実施のうちに来るべき日本の再軍備である。トルーマン大統領が侵略的勢力伸長の脅威を説き、日本の自衛権保持をあらためて宣言したこともこの意味で将来の日米関係の在り方に大きな暗示を与えるものといえるであろう」

日米安保体制下で日本が果たすべき役割は、60年の安保改定、96年の日米安保再確認などを経ていまもなお議論が続く半ば永遠の課題である。それを「将来の日米関係の在り方に大きな暗示を与える」と51年9月に言い切った大軒、木原原稿は今も光を失わない。

この原稿が載った9月10日の日経1面にある社説も「二つの条約調印さる」と見出しを立てて同じ問題を扱っている。大軒らの原稿に比べ、よくも悪くも切れ味は鈍い。中庸をとる社説文学が展開されているからだ。

■「二大勢力の対立緩和のために自由陣営に飛び込む」

1951年
  12月24日
吉田首相がダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)
1952年
   1月18日
韓国、李承晩ラインを設定
   2月15日第1次日韓正式会談始まる
   2月28日日米行政協定に署名
   4月28日対日講和条約、日米安全保障条約発効、日華平和条約署名(8月5日発効)
1953年
   1月20日
アイゼンハワーが米大統領に就任。ダレスが国務長官に
   10月2日池田勇人自由党政調会長が訪米。池田・ロバートソン会談
  12月24日奄美群島返還の日米協定署名(25日発効)

日本が自由主義陣営に加わった事実を認めつつ、「それは決して世界における二大勢力の対立を激化させる意図を持ってではない。むしろ自由国家の陣営に飛び込んで、自由国家の内側から二大勢力の対立を緩和、調整することがわれわれの使命でなければならぬ」と書く。

紙に書いた文章としてはおさまりがいいが、大軒らが指摘する再軍備をどう考えるのか、ここからはわからない。しかし論説陣を責めるわけにもいかない。

この社説は日米安保条約にも触れ、内容が「非常にぼんやりとしかわからない」と書く。行政協定の中身がわからないためにそうならざるを得なかったわけだ。

おそらく当時の日本社会は再軍備について判断しかねていたのだろう。社説文学を駆使したようにみえる日経社説はそれを示唆する。

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