2019年8月20日(火)

日米外交60年の瞬間 第3部

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祝賀ムードの出発風景の陰に サンフランシスコへ(44)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜

2012/6/16 7:01
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講和会議を取材する日経・大軒記者らより2週間遅れ、1951年8月31日、午後5時10分、吉田茂首相ら全権団が羽田空港からサンフランシスコに向け出発した。

当時の日経は「独立への門出」「祝う万歳の声」などと見出しを立てた。歴史的行事を伝える筆遣いが羽田出発の瞬間から始まっていた。

■1000人が羽田で「万歳」

現代の感覚からすれば、この「雑観原稿」は描写が異常とも思えるほど詳しい。

講和会議に向け羽田を出発する日本全権団(左から徳川宗敬、苫米地義三、吉田茂、池田勇人、一万田尚登、星島二郎)=毎日新聞社提供

講和会議に向け羽田を出発する日本全権団(左から徳川宗敬、苫米地義三、吉田茂、池田勇人、一万田尚登、星島二郎)=毎日新聞社提供

31日の東京は薄曇りだったが、昼過ぎから晴れ上がり、「講和への旅立ちにふさわしい快晴となる」といった調子である。「講和晴れ」とでもいいたいような筆の弾みを感じさせる。

見送りの人々の名前も詳しい。益谷秀次首相兼外相代理はじめ全閣僚、田中耕太郎最高裁長官、林譲治衆院議長、佐藤尚武参院議長、各党代表、ボンド総司令部外交局次長、ブラットン英国代理大使、ドジャン仏大使以下の在京外交団が空港で吉田を待ち受けた、という。

ビュイック51年型に乗った首相が娘の麻生和子さんとともに、午後4時40分に現れた。グレーの背広にパナマ帽。吉田らしい英国紳士風のスタイルである。

先着していた全権委員の池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党最高委員長)、星島二郎(自由党常任総務)、徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)、一万田尚登(日銀総裁)らとともに機内の人となった。

当時は航空機にも、船のように名前があった。吉田一行が乗ったのは、パンアメリカン・クリッパー機「ロマンス・オブ・ザ・スカイ」だったと記されている。

羽田空港開港以来最大の約1000人が見送った。万歳の声がわき上がり、日の丸が振られ、それがさざ波のようだった。

全権委員代理以下の随員、国会議員らは吉田らより一足早く31日午後3時にノースウエスト機で羽田を発った。ノースウエストの粋な計らいだろう、飛行機には「講和特別機」と書かれていた。

当時の飛行機はプロペラ機だから航続距離が短かった。吉田らのパンナム機は羽田をたった約8時間後の日本時間1日午前1時1分、ウェーク島に到着した。

北太平洋の環礁であるこの島は、南鳥島の東に位置する。元々は米領だったが、日本軍が占領し、敗戦で再び米領になった。太平洋戦史には登場する名前だが、いまはあまり知られぬ島である。

中国の海洋進出に対抗するための米国の戦略見直しで太平洋の島には再び脚光があたっている。この島も戦略的意味が見直されるのであろうか。

■アチソン、ダレスもサンフランシスコへ

一方、米側のアチソン国務長官、ダレス大使らも31日、ワシントンをたって空路サンフランシスコに向かった。

ワシントンの空港でアチソンは「サンフランシスコではどの国が平和を望み、どの国が平和を望まないか明らかになるだろう。この条約は現実的なものであり、会議に参加する大多数の国が署名することになるだろう」と語った。

1951年
4月11日
トルーマン大統領がマッカーサー元帥を連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米極東軍・極東陸軍総司令官から解職。後任にリッジウェー中将
4月16日ダレス特使再来日
6月20日日本政府、第1次追放解除を発表
8月6日日本政府、第2次解除を発表。鳩山一郎ら追放解除される
9月1日米、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋安保条約に調印
9月4日サンフランシスコ講和会議始まる
9月8日吉田首相、対日講和条約、日米安全保障条約に調印
12月24日吉田首相、ダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)

挑発的な発言である。だが、挑発的といえば、ダレス発言は、ソ連をはじめとする共産主義諸国に対する敵意をもっと明確に示していた。

ダレスは次のように述べた。

「講和条約は故意に第3次世界大戦を引き起こそうと考える悪質強大な国家による直接の攻撃は別にして、それ以外のいかなる事態にも対処できる。そのような悪意ある向こう見ずな国があるとは信じたくないので希望と自信を持ってサンフランシスコに向かう」

背景にはいうまでもなく、朝鮮戦争があった。

東京が吉田出発のニュースで沸き立っているころ、サイゴン放送はソ連と中国が秘密協定に署名したと伝えた。東京で傍受したもので、米軍機が中共にある基地を攻撃すれば、報復に中共の航空機が日本を爆撃する、との内容とされた。

朝鮮戦争が米ソ代理戦争であり、対日講和も米ソ間の外交という名の戦争だったことがここでもわかる。これが冷戦だった。講和後の日本は独立国家として、そこに足を踏み入れていく。

祝賀ムードとは裏腹の苛烈な国際政治の現実である。

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